いつまで同じ会社で働くのが幸せなのか

結論、人による。それは分かってるんですけど、会社としては当然悩むことがいっぱいあります。

 

好きなことを仕事にする、楽しいと思えることを仕事の中でする、仕事自体を好きになって楽しく過ごす…言い方はなんでもいいんですが。小さい会社であり仕事自体を柔軟に作っていくことも出来る余裕があるから、可能な限り個人の幸せと会社の合理を一致させていきたいと常々思うわけです。それは一つの幸せな会社の形だと思うので。だって人生の大半を仕事して過ごすわけだし、それがつまらなかったり嫌々やるものだったら、申し訳ないですもの。少なくとも自分が見える会社の中はそうあって欲しいと本当に思う。

会社で過ごしていると出来ることが増え、自身の未来が開けて来る感覚を持てる人が少なからず出てきます。それは「成長する」「視点が上がる」「未来が見える」、色んな表現が出来るもので。すごく喜ばしいことです。少なくとも彼らの人生にとって会社の仕事が少しでも役に立った、大げさに言えばそのことだけを持ってしても会社は存在してよかった、自分がやって来たことは間違っていなかった、、とすら思います。(ありがとう!)

ただ、上のような状態になると往々にして皆、何かに気付き外の広い世界に旅立ってしまうことが多い。具体的に言うと「独立したい」「昔から夢だったxxxに挑戦したい」「実家に帰って地域でxxxxをはじめたい」と言うようなこと。そういう夢のような、明るい未来が見えることは本当に素晴らしいと思うし、心の底から応援したいと思います。

 

で、タイトルの話になるのですが。ある意味で期待通りに成長して色んなものが見えるようになって個人としてはとてもとても応援したい。でもそんな優秀な人たちが出て行ってしまうと会社はどうなるのか?当然、困るわけです。このコンフリクトの解消はなかなか難しいように思う。

文字通り、個人の中から出てくる全ての夢を会社の中で実現してあげることが出来るのだとしたら、論理的には解消するのかもしれない。でもそれは現実的では無いし不可能なものもある。となると出来るだけ会社の困り度を抑える方法としては、

  • 出て行く人以上に、人を増やす
  • いつでも戻って来られるようにする
  • それでも出来るだけ長く居たくなる具体策をとる
  • 副業的に(この言い方ももはや古いと思うけど)少しの時間や間でも働けるような環境、ルールを作る

などなど。対症療法ではあるけどそんなものかもしれない。

 

自分は相当長く一つの場所にいるけど、それは偶然だし皆がそう出来るともすべきだとも思わない。ただそれが出来た原因はただ一つ、愛のようなものだと今は思う。もしくは盲目と言ってもいいかもしれない。辛い時期も長かったしずっと楽しいかと言うと当然そんなことはなくて。それでも辞めずにいたのは「自分のもの感」と自分が呼んでいるものであり、自分のものだから何とかしたい、という気持ちしかない気がする。合理的に考えればもっと選択肢はあるはずなのに。

これだけ流動的な世界になっているわけだから、人は色んな世界を見るべきだと思う。広い世界を見聞きするということは、人がこれだけ旅行したい生き物だということを考えれば当然の欲求なように思う。ざっくり、2-3年くらい?そのくらいで一つの何かを成し遂げて次に進む。そう言う人を受け入れてまた次のステップに進み、ゆるやかなネットワークを自分や自分の会社の周りに作って行く。それがいまの自分達に必要な働き方と言うか会社と個人の関係なのかもしれないなぁ、と思うのでありました。まる。

社長の仕事

社長の仕事とはなんでしょうか。100人いれば100通りの答えがありそうですが、僕がここしばらく考えて出てきたのは「会社の未来に責任を持つこと」です。

いい会社だなと思っているし、もう干支が一周するくらい続けてきた仕事だからその思いはこれからも変わらないと思うんですよね。良くも悪くも今現在起きていることなら、割と何をどうすればうまくいくのか大体のことはイメージが出来るし大抵のことでは驚かなくなってしまいまったし(偉そうにすいません)。いま自分にとって一番未知なことは、自分がいない未来の会社を想像してそれがうまくいくよう取り組めるのかということです。

 

去年の最初くらいからずーっとこのことを考えていて、その時思っていた一つの答えは「いまいるメンバー達で全ての(自分が見えている)仕事が全て務まること」でした。でも結論、それは全然うまくいかず。コロナのせいもあるかもだけど、自分自身がメンバーに仕事の全てを任せられるイメージがどうしてもつかなかった。もっと正確に言うと覚悟が出来なかった。

いま論理的に考えると当たり前なんですよね。自分が作ってきた仕事なんだから、自分が一番うまく出来るようなものになってるはずなんですよ。それを誰か他の人がやっても自分以上に出来るわけは基本的には無いはず。なので、未来の仕事の形は当然今の仕事とは全然違っているはずだしそうでないとうまくいくわけはなかった、と言うだけの話です。

だから、これからしばらくやろうと思うのは自分がまだいる前提で、仕事の仕方を変えていくこと自体を任せて見守ると言うこと。多分それなら自分も納得できるし、彼らは彼らで僕自身が作ってきたような仕事、「未来の会社の仕事」を作っていくのではないかなと思います。

 

最後に残る自分の仕事って何なんだろうな。もしかするとほんとに「よきにはからえ」って言うことだけなのかもしれない。これだけ書くとバカ殿っぽいんだけど、メンバーの力を信じて最後結果責任だけ追う覚悟をする。それはそれで偉大な将軍様の形としてあるのかもと思う。

最終形に至るまでの時間は今の所わからないんだけど、その時を決めるのは何かの偶然だろうしその時には「どうにかなる」ものだと思う。必ずその時にどうにかなる、何が起きてもどうとでもなると言う覚悟と準備をしておくのが社長の本質的な仕事だと今は思うのでありました。まる。

 

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ここまで書いてきて、めちゃくちゃありきたりだなと自分でも思うんですよ。そういう文章っていっぱい読んだことある気がしますし。そのはずなんだけど自分にとってとても新しいと言うか実感が持てるのは、ようやくそれが理解できるレベルになってきたということなのかもしれない。あー、成長を感じる・・・なんて。

子どもと成長日記

一番下の子が家に帰ってきて、自分自身も仕事を半分くらいに抑えながら仕事する形になってます。自由な働き方を許容してくれる職場には本当に感謝。

 

機械から離れられず基本は外出出来ないのでお正月も家で家族だけで過ごしてたんですが、福袋を買いにわざわざ朝の7時からミスタードーナツへ。。ポケモングッズが大量に入ってて、かつドーナツ50個引き換え券がついて5000円!どうせ買うならお得だなと思い、福袋結局2つ買ってしまった。次女は寝起きが良いので「行く!」と言って着いてきてくれたので二人でドーナツデートして帰宅。かわいい。

 

福袋の中にスケジュール帳が付いてたので、日記をつけることにしました。子どもたちの勉強見ていて、成長する記録つけることにしたいなーとちょうど思ってたので。これ書いてるのは22日ですけど今のとこ毎日書いてます。

 

長女の今頑張ってるのは、日々の生活。。朝どうやっても起きられないのであの手この手で早く寝るように仕向けて先週はついに毎日スッキリ起きてきて学校行きました。ちゃんと朝のルーチンワークもこなせるようになってきてえらい。「言われたら(イヤイヤながら)やる」というタイプなのでとにかくこちらが忘れないように徹底的に管理することで実現。僕自身の得意なことと合ってます。

 

長男は最近パソコンの練習をはじめまして。練習と言うか遊ぶだけなんですが、PCのアカウント作ってあげてネットの検索出来るようになったり、昨日はgoogleストリートビューで自分の家探してみたり。毎日のオンライン学習も自分で準備出来るようになったので進歩。当面はひたすらタイピング練習してパパに追いつくのが目標らしい。。僕はe-typingだとNinjaくらいなんですが、果たして追いつける日は来るのか。あと保育園で流行ってるらしい将棋も一緒にやってます。

 

次女はやりたいことが多いんですが、最近はお兄ちゃんが勉強してたら一緒にやりたいし、お姉ちゃんがゲームしてたら一緒にゲームしたいし、ママとパバが弟と遊んでたら一緒に遊んでほしい。保育園の仲良いお友達が好き過ぎて、その子が好きなものが好き。好き嫌いがはっきりしてて、顔はパパ似で中身は完全にママ。つまりうちの子です。先週机を買ってあげたらそのデコレーションが今は一番楽しい様子です。

 

次男は、いま8ヶ月くらいですが頑張って日々成長してます。機械がついてるもののとても元気だし最近「うぇーい!」とよく叫んでるしつかまり立ちでどこへでも行くので何も心配ない感じ。三ヶ月後か半年後か、早く機械取れるように頑張って大きくなってくれれば。ちなみにシラス海苔おかゆがめちゃくちゃ好きで、デジタル系のものが何でも好き。ノートpcで英会話してたら必ず参加して来ます。

 

書いておけば忘れない、というより、書くことでより覚えていられる気がします。昔よりも忘れっぽくなってきたなーって実感しますけど、大切なことは忘れないで生きていきたいものです。子ども達の成長は多分何十年経ってもずっと大切に思えるはずなので、楽しんで一緒に学んでいきたいものですね。まる。

医療的ケア児の親として

今年生まれた我が家の第4子、調子が悪く入退院を繰り返していたのですが、いくつかの病院で診てもらった結果、病名も分かり。気管支が弱いのを治すために人工呼吸器のようなものをしばらく付けっ放しで生活しなければならない、いわゆる医療的ケア児と相成りました。もうすぐ退院して帰ってくるんですが、年末までは僕がほぼ仕事を休み年明け1月からは週2勤務(奥さんは週3勤務)の体制にさせてもらってしばらく(3ヶ月?半年?)は育児に専念する日々になりそうです。

「大変ですね」と言って頂いたら「そうなんですよお」と応えるようにはしてるんですが、正直なんとかなる、というよりなんとでもなるなというのが率直な気持ちではあります。別に無理して奮い立たせている、とかでもなくて。

 

「悲観的に計画し楽観的に行動する」というようなことを孫子も、稲盛和夫さんも言ってらっしゃいますけども、自分は結構そういう生き方が好きで。ものごとにはなんでも計画・準備の段階と、実行に移す段階があるわけじゃないですか。自分の会社の経営でも家族の経営(!)でも、結構色んなことを想定していると思うし準備できるうちには特にリスク対策は結構やってるなという感覚があります。リスク洗い出すの好きだし、出来る想定は全部しておきたい。そしたら何すればいいかいざ判断する時に困らなくていいから。別に全部のリスク対策を実行するわけでもなくて、ある程度発生確率の高いことだけやればいいとも思う・・・みたいなこれは「計画・準備」の段階の話です。

一方で、実行の段階になるともはや「何を考えてもしょうがない」という状態になります。であれば色んな意味で最大限の結果を得ようとすると、悲観的にじっくりゆっくり時間かけて考えながら実行…みたいなことをせず、楽観的に明るく思い切ってやった方が大体のことはうまくいく気がします。というか実行フェーズなのに今更考えても遅いしあんまり意味ないわけで…であれば、その実行フェーズを最大限有意義にすべき、というのは必然だと思うわけです。

 

最初の話に戻ります。病気になっちゃったものはしょうがない。風邪の対策とか万全にやっておけばこうはならなかったかも、とは思うけど正直そこまでの対策を家族全員に強いて窮屈な生活をさせたくないししたくもない。でも家に帰ってきたらうがい手洗いはきちんとやる、くらいのことでリスク対策としては良かったと思うわけです。

今はもう病気の看病をどう対応しきるか、という実行フェーズなわけで。病気なんて他にもいっぱいあるし、命に別状が無い時点で正直この程度の病気でラッキーだとすら思っている。自分が仕事休むのも会社にちょっと迷惑かかるなーとは思いつつも、いずれ引き継ぐ仕事が前倒しされて結果良かったのでは、とすら思う。一番下の子とも、上の子どもたちとも遊ぶ時間が増えるだろうし、そう考えたらそのチャンスをわざわざもらったのでは…とも思う。「前向き過ぎやろ」と奥さんは言いますけど、でも物理的には何とでもなるし(寝不足にはなりそうだけど)、家族にとってはパパもママも家にいる時間が増えるということはプラスの面はいっぱいあります。

病気になってようが、うちの子は何しててもかわいい。何年か経った後に「大変やったなー」って言う思い出が一つできると思えば、みんなで新しい体験をする旅行をしているような感覚。であれば、最大限この期間を楽しんで今しか出来ないことをやっていきたいなーと思うのでありました。まる。

リーダーの辞め時を考える その2

前回の記事の続きです。もう1年前です。

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どういう時を辞め時と捉えるのか、というのが前回の話だとすると今回の話は辞め時を悟った後に実際に自分がやっていることの話。

経験値が増えないと言ったものの、例えば「引き継ぐ」「次の世代がうまく動けるようにする」「自分がいない組織で何がどうなっていればみんな幸せなのかを考える」みたいなことは当然やったことがないわけで、経験値としてはそれを貯めているし実行しているなという感じがします。

辞めた後のことなんか知らん、と言い放つことも出来るんだけど、それはどうにも気持ち悪いというかダメな気がしている。自分が長い時間をかけてつくってきたものであるから尚更、いなくなったあともうまく続いていってほしいと思う。

全てが同じままなわけはないから、色んなものはやがて変わっていく。その中で変わらないでいて欲しいものやことと、大事なのは一体なんなんだろうか?それは「組織の人たちが自由に最大限の力を発揮できていること」だと思うし、また「組織として他には出来ない、社会的意義のあることをやっていること」だとも思う。(あまり具体的に書くとあれなので抽象的に書いてます。)

じゃあ、それってどうやって守れるものなんだろうかと思った時にまず思いついたのは「次のリーダーが同じようにそれを大切に思い、そのために適切な判断をしていけるようにしていく」ということ。つまりは次世代のリーダーを育てるということでしかない。人が人を変えようなどというのはつくづくおこがましいとも思うんだけど、自分が信じてやってきたことだしそのことくらいは、押し付けて(!)もいいのではとちょっと思いながらやってます。

相変わらずゲーマーなので、人のパラメータを数値化して信長の野望みたいに並べてみたりするのも好きです。でもそれで気付いたのはリーダーというのは多分、①「全体の数字がバランス良く高いこと」と、②「何かについて一番能力が高いこと」の両方が必要なんだろうなということです。

①について。ここでいうパラメータは組織運営に必要な色んな力です。例えば会社なら営業力なのかもしれないし、企画力、技術力、あるいは英語ができる、、とかそんなことでしょうか。バランスが大事だと思うのは全体を率いるに当たってパラメータの低い穴があると、そこは誰かに完全に依存する形になってしまうため。そうなると組織のバランスは崩れざるを得ないし自分自身が最終結果にコミット出来なくなる、と思うんですよね。ただ経験も長くなってくると①の方はまぁ高くなってくると思うので、時間が解決するものでもある気がします。

②について。最近思うのは②は現リーダーと次世代リーダーで違ってもいい、というか違うべきだ、、ということです。②でキャラがかぶってるのは多分引き継ぐ上でだいぶ辛いと思うんですよね。なんでかっていうと比較が容易だし往々にして現リーダーの方が能力が高いから、そこで移行すると組織全体が劣化したように見えてしまうわけです。そうなるくらいなら全く違った②の能力で持って全体を牽引するような形をとった方が、組織はスムーズに変わっていくんじゃないかなと。何か突き抜けたプロフェッショナルとして②の力を持っていれば、その立場で色んなものが見えるはず。例えば会社においては営業上がりの社長もいれば、技術上がりの社長もいる。それは言い換えると②は何でもいいということだと思います。

最後は、自分自身は不安との戦い。その上で覚悟して任せられるかどうか。その時がくるまでにどれだけ自分にとっての確率を上げておけるか、が引き継ぐ側の最後の勝負だろうなと思い「楽な仕事だなー」と一定思われてることを知りながら、がんばるわけです。まる。

 

 

合理性の獣

すいません、タイトルは言いたいだけです。最近ガンダムUC(ユニコーン)を見直していて、やっぱかっこいいなーーと。OVAしか見てなかったので改めて見てるのはTVのRE:0096の方。音楽もOVAと同じものが一部使われてたりして本当に良い。

 

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自分にとっての合理性というものについて書いておきたい。自分自身はやはり、自分が決めた 理 に従って生きていきたいと思っている。これはかなり根本的なところにあるなと気付いた。

目的を持ち、目標を定め、それに向かって進む。日々の生活における合理というのはそんなものだと思います。だから当てもなく買い物に出てぶらぶらするのも好きじゃないし、目標も持たず生きる人間を見るとどうしようもなく腹が立ってくる。仕事をしていても「なんでだっけ?」って聞いて答えられないような仕事に対しては、まず筋道を立てて欲しいと思ってしまう。

合理と情理、というような言葉があるけれど、情理は当然あるし理解しているつもりでもあるけど、それ自体もかなりの部分を自分の合理性の中で判断している気がする。自分自身は全く感情的なつもりはなくて、もし周りから感情的に「怒ってる」というように見えるなら、それは自分にとっての不合理から来るストレスの発現なんだろうなと思います。

 

別に合理的に生きないことがダメだと言ってるわけではなく。みんなそれぞれが幸せに生きてるならほんとそれで良いと思うんですけどね。それでも何かに迷ったり、不幸せに生きている様子を見るとやっぱり「やりたいことないの?好きなことを目標にしたら」って言いたくなってしまう。だってそれって数少ない、誰にでも出来る幸せになるための合理的な方法だと思いますし。

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このエントリも自分にとっての一つの真理であり。好きなことを軸にして、徹底的に合理的に追求していく、、というプロセスは自分が得意なものだし絶対にやり切れる自信がある。考えて解決しない問題なんてあまり無いはずだから。(解決出来ないときは何か不合理なものが紛れ込んでいることが多い)

 

自分の子どもたちに対して思うことはただ一つ、幸せに自分の力で生きて言って欲しいということ。自分が38歳にしてわかった数少ない方法論があるとしたら、ここに書いたような話。他の方法でももちろん良い。何でも良いから自分なりの答えを見つけて幸せに生きていって欲しいなと思うのであります。

そのためであれば、自分は喜んで合理性の獣であろうと、改めて思うのでありました。まる。

 

子どもたちと友達の関係

この週末、たまたま3人の子どもたちそれぞれと友達がいるとかいないとか、ほしいとかほしくないとか、ケンカしたとか、一緒遊びたいとか、そういう話をしました。三者三様で色んな距離の取り方があるなと思います。

真ん中の長男は割とわかり易くて(少なくとも男親の自分にとっては)、いつも仲良く遊んでる友達と些細なことでケンカしたようで「もう遊ばない!」って言われてショックだった、、みたいな話でした。ただ、男友達の関係なんてさっぱりしたもんだから「悪いと思ったんなら来週会ったらごめんね、って言えばいいじゃん」で割と納得できたと言うか、大丈夫かなと思いました。これまで他の友達ともケンカしたり仲直りしたりしてるのできっとそうやって学んでいくのでしょう。

下の次女は仲良くなってからは大丈夫なんだけど仲良くなるまでがシャイと言うか、なかなか時間が掛かるようで、初めての人がいっぱいいる場所とかあまり行きたがらないタイプ。こないだも忍者体験教室(お兄ちゃん入れて3人しかいないんだけど。。)で大泣きしたりして中々難しいもんだなと思います。彼女の今の悩み(?)は「保育園で一番仲良くしているお友達に嫌われたく無い」という気持ちのようで、服の選び方とか、保育園での遊び方とか、それを基準に選んでいる様子。若干依存し過ぎな感があるのが少し心配ではありますが、仲良しの友達がいること自体はよかったねと思います。今日は朝からその友達が家に遊びに来てくれて2人で仲良く遊んでました。

一番心配だなぁと思っちゃうのは上の長女の方で、もはやあまり人に関心が無い、、という状態なのかもしれない。「友達とケンカしたこと一度もない」と言う話から、それってほんとに友達なの?という話になり、自分が何か言ったところで人が変わるとは思わない…とか、そのスタンスでそもそもいいの?とか、逆になんでそんなお節介なの?とか、いやいや友情ってそういうもんでしょとか、平行線ではあるんですが思ってることは色々分かってきました。人に対する愛情の深さだったり執着だったり、あとは自分自身の自己肯定感とか。親の自分の考え方が絶対とは思わないけど、漫画のワンピースみたいな友達とかってちょっと良いなって思わんの?って聞くと「うん」と言うので、いたら良いなと思ってはいるみたいで。少しずつ自分が納得できる形で距離の取り方を変えていけばいいなと思います。

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長女と話して思ったんですけど、そもそも友達との関係なんてお節介のカタマリみたいなとこあるじゃないですか。それは家族でも同じなんですけど。何かその人がすることに対して本気で怒るとか、それでも一緒に何かしたいとか、楽しいと思うとか。考えれば考えるほど特殊な感情だし身勝手だなとも思います。でもそういう距離感に誰か人がいると言うのは多分幸せなことでもあるはずで。どのくらいの距離にいてほしいとか、何人いてほしいとかそういうのは人によって違うとは思う。

友達というか人間関係の距離を縮める上では色んな恐怖も心配も、失敗もあるわけですけど、それを恐れずやってみたいと思えるある種の覚悟と、あとは自信とか?そんなものだけあれば良いはずで。(すぐに覚悟と自信の話にしてスイマセン) 何かやっちゃっても「ごめんね」で良いし、全力でやりたいことをやってみてそれでも伝わらなければ最後の最後はしょうがない、で良いかもしれない。

「友情」みたいな言葉が色んなテーマになっていることを考えると人類とは切っても切れない概念なんだと思います。それは人生に必要なものなのでしょう。ぜひ子どもたちにも良い友達関係を作っていけるよう、日々悩んでいってくれればなと思うのでありました。まる。