怒る自分の感情の自己分析2

このエントリを書いたのはどうやら10年前のようなのですが、2が出なかったということはアップデートが無かったということ。自分の中では結構な真理だったつもりなんだけど、いまその2を書いてるということはアップデートされたということなので、それを書いておきます。

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期待が裏切られた時に怒る、ということが書いてあります。それはまぁそうなんですが、「期待ってなんやねん」というのが何とも抽象的で、何を期待しているのか長いこと言葉に出来ていなかった。

 

最近気付いたのは「まじめにやらない」ことに対してすげー怒ってるなということなんです。逆に言うと「真剣にやる」「全力でやる」「本気でやる」「真摯にやる」「最大限やる」ということが自分にとってとてもとても大事なんだなってことに気がついた。

仕事でもなんでも、ぶっちゃけ、結果は二の次なんですよね。出来る限りのことをやりきってくれさえすれば、どんな結果になっても全然腹も立たなくて。次頑張ろうねって素直に思える。でも、まじめにやらないのは結果以前の問題としてめっちゃくちゃ腹立つ。

 

社長として父親として、より良く生きていくために何が大事かってよく考えるんですけど。人間に出来る数少ないやるべきことというか、使命みたいなものって「本当に文字通り命を燃やしていると言えるくらい本気で生きること」しか無いと思うんですよね。上の娘にもつい言ってしまった。「とにかく本気で生きろ。そしたら何があっても全力で助ける」 きっと娘は(うわ、またおっさんが暑苦しいこと言っとる…)って思ってることでしょう。

 

真剣にやらないのって、もはや生きることへの冒涜というか。何やってんのって思ってしまう。だから、自分自身も大事なことは何でも本気でやりたいし、身近な人にはそれを期待してしまう。だから、大事なことに対して適当だったり手抜きだったり努力を感じなかったりするのが嫌なんだなーと。自分は、ちゃんと生きてる人と一緒に生きていきたいと思っている。そういえば結婚しようと思ったのもそれが一番の理由だった。彼女たちはとても真剣に生きていると八年前に思ったのだった。

 

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まじめに全力で生きることを期待する。別に無理してほしいわけじゃなくて。能力も経験もスキルも違うからね。でもそれでも、ちゃんと力を尽くしてほしい。それだけでいい。ちゃんとみんな頑張ってるって信じたいだけなんだよなー。そしたら何も聞かなくていいし、疑わなくていい。ネガティブなコミュニケーションコストをゼロに出来るんですもの。

人はただ生きるのみにあらず。自分以外の誰か、何かのために力を尽くすことで社会はよくなっていくはずなのだ、と最近ほんとにおもってるのです。まる。

行きつけのカフェで勝手にコーヒーフロートが出てくるようになった

表題の通りです。

 

同じことを習慣として繰り返していくと、当然ながら次が想像出来るわけで。それは経験からパターンを学習して活かすと言うことである。

なぜカフェのお姉さん(大体土曜は同じ人)が今日になって「コーヒーフロートですね」と僕が注文する前に言うことにしたのかは定かでは無いが、ただそれでも覚えてもらっている実感を持てて悪い気はしないので、顧客ロイヤリティの向上に寄与していると思います。

 

最近、ずっとChatGPTを調べたりどう使うかを考えていて。未来の色んなことがAIで書き変わっていきそうなのを目の当たりにすると、何かを考えること自体が最近はとても楽しい。ゲームするのが楽しい時間ってまぁ、自分は暇なんだなと実感するんですけど、今はそれそらもちょっと惜しいくらいには楽しい。

最初に書いたようなパターンの学習って、自分自身の行動がデータになっていればおよそ予想はつくわけで。子どもを塾に送った帰りに寄る店だから大体同じ時間だし、そこでコーヒーフロートしかこの半年くらい頼んでないから、多分来週2月25日土曜の同じくらいの時間にこの人が来てコーヒーフロートを頼む確率は、多分80%くらいはある。そう考えるとだいぶ高いし、AIってすごい!!って思う(AI関係無いけど・・・)

 

クリエイティブとは何か、人間と機械の境界線は何か。それが大きく変わっていくのを感じるし、多分人間が想像しているようなシンプルな線の引かれ方では無いように見える。単純作業だから、とか、知識が必要な仕事だから、とかそういうことじゃないと思う。人間に残る価値とは何なのか?それを考えるのはとても面白い。とりあえずAPI試したりプロンプトいっぱい試して反応見て使う、を繰り返して試行錯誤することでもう少しその地平を見ていきたいと思います。

 

別件、ついに通ったらしい。ので、決戦は3月か4月か。自分の行く末も大きく変わりそうな気がするな。今のAIブームも無関係ではないはずだ。

 

さらに別件、友達が芸能ニュースに出ててびびった。色んなところで色んなものはつながっているものである。

 

以上、生存報告まで。まる。

これが最後の仕事になるように

気付けば、先月までと逆方向の仕事をしている。いかに辞めるかの話ではなく、いかに続けるか、続けていくのかという話。

 

やってきた仕事も、身に付けてきたスキルも、培ってきた人脈も、世の中に示すことが出来た価値も、そして目の前にある偶然も、全部使って本気で戦っている感覚に久しぶりになっている。しばらくちゃんと「仕事」してなかったなと思ってたけど、今はしてる実感がある。

 

まだ、今なら退けるし止められる、って少しは思う。もしかすると失敗するかもしれない、誰かを不幸にするかもしれない・・・ということも。でも、どうやっても死ぬわけではないし。きっと自分を含めたみんな幸せに出来る方法はこれだと自分は信じているし。失うものはそんなに無いと思えば思い切ってやれるし、結果的にこれまでそうやってしてきた事は何も間違ってはいなかったはず。

 

なぜなら。これまで自分がやって来たことが正しかったと思うために、というかそれを証明するために過去を肯定するために我々は仕事をするからである。諦めなければ負けないし、自分自身を肯定出来るのは自分自身しかいないし、それを出来ない理由は無い。ゆえに、やらない理由は何も無い。というかんじ。

 

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今週、久しぶりに英語で10時間くらいぶっ続けて考えて、話した気がする。自分でも成長したなーって思うし12年前に比べたらこれ自体ちょっと嬉しい気持ちにもなるんだけど、それ以上に嬉しいのは自分がやって来たことをすぐそばにいる誰かではなくて、地球の裏側にいる全然違う誰かが認めてくれているからかもしれない。もちろん、そこには打算も思惑も、俺に言えないこともあるのかもしれない。でも少なくとも自分がやって来たことを最大限に評価してくれてそれを世の中の礎とする方法があるのなら、それがどんな方法であれ正しいことではないか、と思う。

 

傲慢な言い方なのはわかっている。それでも自分は一定賢いと思うし、間違ったことはしてこなかったという自負がある。その前提で、やはり過去を肯定し未来につなげることが一番大切だしやりたいこと。それが生きるということだと、少し大袈裟だけど思うのである。だって後悔なんかしたくないし。どんな結果になったとしても絶対それが正しい。自分を信じて、過去の選択を全て「正しかったことにする」、それが自分望む生き方なのだとようやく少し言語化出来るようになった。

 

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どっかに同じようなこと書いてそうだな、って思ったらやっぱり書いてあった。この時からの変化で言うと、「過去の全てを受け入れる」って、この時は能動的に「受け入れよう」って思っていたのかも。でも今の気持ちは「当然受け入れている」という感じ。むしろそれは前提というか。これは自分の成長なのかもしれない。

 

だからこれからも後悔しないように、自分が思い描けた一番良いものを目指してがんばっていこうと思うのでありました。まる。

 

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よもやまdays2

お世話になってる大先輩、社長。飯田橋でお昼ご飯にお蕎麦をごちそうになってしまって、気付けば3時間も頂いてしまった。ありがたいことです。

会社の大先輩であり、今の自分の会社の取引先でもあり。海外に赴任されてる時には現地に遊びに行ったり、なんだかんだで奥さんも兄も会ったことがある、一方的に僕がメンターだと思っているような人。来週、うちの本社の社長とも会う予定があるらしく、先にお会いできたのはちょっとしてやったり感があります。

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単純に楽しかったというのもありますが。いくつか印象的だった話を書いておきます。

 

海外行くなら若いうちに行った方がいいよ。

若いって言ってももういい年ですが。。(20歳くらい歳が離れてるから、そこから見ると確かに自分はピヨピヨかもしれない。) やっぱり大企業に所属しながら行くのが今の自分にとってはベストなんだろうな、、と思う。色んな行き方があるけど現実的に個人で行くのはキツい。家族の問題もあるし、まずは生活の基盤をちゃんと作らないといけないことも考えるとそれが一番いいのでは、とのこと。ちょっとリアリティが出てきた気がする。

 

当たるものは、怪しいものだ。

この後の話にも繋がるけど、みんなが賛成するものはどうせ成功しない。最終的にうまくいくものはちゃんと誰かが反対しているものだろう、という。自分の仕事でもそれはその通りな実感がある(ある程度の成功といえるまで5-6年はかかった) 主体者としては「それでも信じてやり続けた先に見えるものがある」と言うことなんだけど、客観的に見れば批判もされて怪しいものだからこそ取り組む人も少なく、ニッチだけどトップになれる可能性を持っていると言う確率論的なことなのかもしれない。

 

誰かに期待し過ぎない。そのままでいい。誰かのおかげ。

「俺も40代前半まではそうだった」という前置き付きで。何かを熱く思い、変えていくことだけが正しいわけじゃ無いと悟ったんだよね、という。色んなことを思いながら生きていく人がいる。みんながみんな世界の平和を望んで高い志を持たないといけないわけではなく、目の前30cmが良ければいいという人たちもいるしそれでいいのでは。そして現実的にそう言う人に支えられて色んな組織や会社回っていると言う事実も考えると、あんまり怒ってもしょうがないし怒らなくてもいいやって思うようになったよね、、むしろ彼らのおかげで今があるという話。正直まだピンと来ないしこれについては反発する気持ちの方が大きいのも事実。「丸くなっちゃいましたね」、、とか失礼なことは言わなかったけど、でも本気で仰ってるので、一つの真実として受け止めたいと思った。

 

最後は任せるしか無いし、自分で選ばない方がいい。

自分の今の一番の悩み「リーダーの辞め時を考える」の話。自分がずっと責任を持ち続けるわけでもないのに、自分が最後に何かを選ぶのがそもそも違うんじゃないの?と。これは、確かになぁーーと思ったのでした。多分、自分がまだ何か出来ると思ってるし自分の勘違いでなければある程度は後のことを選ぶ権利が留保されてそうだから。だから選べるものは選びたいし、残せるものは残したいとも思っていた。でもそうではないのかもしれない。残るものは「既に残っている」し、ああしろこうしろということや、物や、戦略とかではなくて。残された人の中にある考え方だとか判断軸、経験のようなものこそが後に残るもの。最後はその仕事がちゃんと役に立つものなのであれば組織も人もちゃんと残っていくはず…だからやるべきことをやったら、その結果自体を受け入れて、後のことを何か判断することはしない方がいいのでは、と言う話。後のことは、後のことに責任を持つ人たち自身が責任を持てばいい、のはきっとそうなんだろうなと思って腑に落ちた。自分に出来るのはその人たちに何をしろと言うことではなく、彼ら自身が良いことを出来るように能力を高めて機会を与えていくと言うこと。それだけがやるべきことなのかもしれないと思ったのでありました。まる。

よもやまdays

よもやま、という言葉自体独特な言葉なのでしょうが。最近コロナもだいぶ落ち着いてきたので時間を見つけて色んな人に会いに行ったり、最近会えていなかった人に会うようにしています。気付いたことを書いておきたい。会った順です。

 

人事部の偉い人。

いくつか報告することがあったのでそれを報告するついでに。別に何かを宣言しに行ったわけではないんだけど、結局「どうしたいの」と言われる。そうだよなぁ、と思いつつ率直に思ってることを言ったけど「昔と今とでは、会社のフェーズも違うよね」という話に。そうなんです。もう十数年経つけど自分も組織も大きく成長した。自分が育てたものと同様に彼らもまた大きくなっており、昔は出来たことも今は出来なくなったり必要なくなったりする。逆に今だからこそやるべきことがある。それを自分は、今ここでやりたいと思うのか…?それに尽きる気がした。

 

前の社長。

組織の大きさで価値が決まるわけでは無いけど、自分以上に大きな組織の上にいてなんか大変そうというか自分だったらそこで何が出来るのだろう、、という気がした。100人の世界はとはいえ、目が届く。でも1000人の世界はどうなんだろう?「自分のこれまでの何を活かしたいのか?」確かにその視点はある。なんでも、ある程度のことは出来ると思う。その中で自分が培って来た何を活かして、どう生きたいんだろうか。問いは同じだと思った。

 

初代社長。

気付けば、遠くまで来た。一緒に事業を始めた時は見えなかったものが今は見えているし彼に出来なかったことを自分はできたとも思う。そして色んなものを教わったし、それを軸に自分でも学んだと思う。彼の事業を何とか成り立たようとしていたものが、今は自分の事業だと言えるようになった。今でも社長は自由だし、変わらないなぁと思う。変わらないまま生きていく、それは一つの生き方を見つけているということだろうし一つの極地なのだろう。変わらず生きていく、ある意味で勇気が必要だと思うけど一つの在り方なのだろう。

 

兄と弟と母。

何年振りか、そしてあと何度会えるのか…。やはり年齢を感じずにはいられない。時の流れをいつも早く感じる。生まれたばかりだと思っていた子ども達も気付けば小学生だし。昔から好きなものは好きだし、昔からあるコーヒーマシンはそのままだし、家が変わろうが子どもが増えようが、結局ここにあるのは25年前からある4人の家族の時間なのである。別に変わることを求めてもいないし何か発見したいわけでもない。「変わらんな」ということに安心してそうであって欲しいと思う数少ない時間なのであろう。

 

昔の友達。

数年前に実家の静岡に帰ったはずだけど、また東京で仕事をするらしい。自分の作った縁の延長にそれがあることを聞き、単純に良かったなと思う。自分の仕事との関連もあるし色んなところでつながるものだなと思う。しばらく忘れていたけど、こうやって種を蒔いて、偶然に期待して(もしくは期待せずに)生きていくのもまた一つの人生の形なのでしょうな。それはそれで楽しい気がするし、人間関係を作っていくということは必然的にそういうことな気がします。原神めっちゃ勧められた…。

 

会社の偉い人。

そんなによく知ってる人では無いんだけど、前の社長が何か話してくれたらしい。端的に言うと自分への仕事のオファーだった。ありがたいことです。自分に持てている一つのユニークネスがどこかで活きるのであれば、それはとても嬉しいこと。やりたいことをやらせてもらって来た実感があるから、期待されているならちゃんと応えておきたい、という思いはとてもある。そしてそれは自分のこれからのためにもきっとなる、ような気がする。

 

親友の一人。

気付けばお互いの子どもも直接会わないまま長い時間が経ってしまった。でも不思議と時間の経過は感じない。考え方も生き方も、そして趣味もよく似ていて。色んな意味で「よくわかる」と思う。仕事も家庭も色んな出来事がありそうで大変そうだったけど、きっとそれも含めて楽しく乗り越えていくのだろう、と思う。二人でコワーキングスペースで並んでお互いの会社の仕事をしていると、二人でゲーセンで並んで無言で何時間もゲームしてたあの頃を思い出して何かおかしい。いい意味でお互いが変わらないことを確認できたから、きっとまた色んなところでオーバーラップしていくのだろうと思う。LoLを早速インストールした。

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TBD

ご近所さんたち。

よその会社の偉い人。

お世話になってる大先輩、社長。

長崎旅行

子どもも結構元気になってきたので、久しぶりに全員揃ってGWにお出かけしました。といいつつこれを書いてる日にまた下の子が入院したわけですが。。

 

旅行で一番大事なのは、文字通り休みなので仕事のことを一切忘れるということでして。今回は一度も社用携帯を開きませんでした。旅行に行くこと自体すごく久しぶりだし、子どもが4人もいるとそれぞれの関係性について旅行先で別の面が垣間見えたりしてとても楽しい。

 

写真はハウステンボスの観覧車と、夜のイルミネーションと、泊まったところの近くにある眼鏡橋。Airbnbで古民家を借りて長崎に全部で4泊5日。

 

1日目は長崎空港に到着し、長崎新地中華街で晩ごはん。日本三代中華街らしいけどちょと寂しい。。おそらくコロナもあり観光客だいぶ減っちゃったんだろうなと言う印象。。中華はおいしかった。あと出島が近かったので出島を観光。カピタン邸を下の子が高速ハイハイで走り回っていたのがハイライト。

 

2日目は伊王島と言う西の方にある島のリゾート施設。プールに行ったりみんなでごろごろしながらマンガ読んだり。朝から行ったけど都合3時間プールに入っても子どもたちは元気で、ケータイも持ち込み可だったから色々撮れてよかった。最近スイミング行ってるだけあって二人ともとても泳ぐのは上手になりました。色々あって上の娘はこの日の夜に合流。中学生にもなると一人で飛行機に乗って長崎にも来れちゃうものですね。

 

3日目は長崎の中心地で観光。「こどもでじまはく」なるイベントがあり真ん中二人を連れて出動。たまたま行った割にはとても楽しめた。ボールプールがあったり、ディズニーのバズ・ライトイヤーもどきの射撃があったり、描いた魚の絵が大画面に映し出されるやつがあったり色々。夜はなぜか夫婦だけで高級焼肉に。。うまし。

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4日目は待望のハウステンボス。めちゃくちゃ広い。これなら確かに泊まって2, 3日いてもいいかもしれない…。一番下の子がちっちゃいので「おもいやりパス」なるお買い得チケットで入れてお得感があった。中は中ですごくいい意味で「リノベーション」されてる感じがして、全体のオランダ感とは全く違うデジタルアトラクションがあったりするんですが、個々の施設をゲーム会社が本気でプロデュースしてる感じがしてとてもよかったです。釣りゲーとか音ゲーとか。。夜のイルミネーションもきれい。ただし広すぎて多分2万歩くらい歩いたので子どもたちは最後には動けずおんぶすることに。。

 

5日目は眼鏡橋あたりを観光して帰宅。なぜか眼鏡橋周辺で長崎放送のテレビの取材を受けた。もしかするとこの日の夕方の「GWの観光地のにぎわい」的なトピックスでうちの家族が出演していたかもしれません。そういえばお土産にカステラ10種類くらい買った!これ書いてる今も食べ比べてますが、正直違いがそこまでわからない・・・どれもおいしいのです。カステラはうまい。

 

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色々ありますけど、我が家は平和だし恵まれてるなと思うわけです。みんなで旅行に来て楽しく過ごせるなら何も言うことはありません。もうちょっと下の子が大きくなったら今度は海外かなー。

 



いつまで同じ会社で働くのが幸せなのか

結論、人による。それは分かってるんですけど、会社としては当然悩むことがいっぱいあります。

 

好きなことを仕事にする、楽しいと思えることを仕事の中でする、仕事自体を好きになって楽しく過ごす…言い方はなんでもいいんですが。小さい会社であり仕事自体を柔軟に作っていくことも出来る余裕があるから、可能な限り個人の幸せと会社の合理を一致させていきたいと常々思うわけです。それは一つの幸せな会社の形だと思うので。だって人生の大半を仕事して過ごすわけだし、それがつまらなかったり嫌々やるものだったら、申し訳ないですもの。少なくとも自分が見える会社の中はそうあって欲しいと本当に思う。

会社で過ごしていると出来ることが増え、自身の未来が開けて来る感覚を持てる人が少なからず出てきます。それは「成長する」「視点が上がる」「未来が見える」、色んな表現が出来るもので。すごく喜ばしいことです。少なくとも彼らの人生にとって会社の仕事が少しでも役に立った、大げさに言えばそのことだけを持ってしても会社は存在してよかった、自分がやって来たことは間違っていなかった、、とすら思います。(ありがとう!)

ただ、上のような状態になると往々にして皆、何かに気付き外の広い世界に旅立ってしまうことが多い。具体的に言うと「独立したい」「昔から夢だったxxxに挑戦したい」「実家に帰って地域でxxxxをはじめたい」と言うようなこと。そういう夢のような、明るい未来が見えることは本当に素晴らしいと思うし、心の底から応援したいと思います。

 

で、タイトルの話になるのですが。ある意味で期待通りに成長して色んなものが見えるようになって個人としてはとてもとても応援したい。でもそんな優秀な人たちが出て行ってしまうと会社はどうなるのか?当然、困るわけです。このコンフリクトの解消はなかなか難しいように思う。

文字通り、個人の中から出てくる全ての夢を会社の中で実現してあげることが出来るのだとしたら、論理的には解消するのかもしれない。でもそれは現実的では無いし不可能なものもある。となると出来るだけ会社の困り度を抑える方法としては、

  • 出て行く人以上に、人を増やす
  • いつでも戻って来られるようにする
  • それでも出来るだけ長く居たくなる具体策をとる
  • 副業的に(この言い方ももはや古いと思うけど)少しの時間や間でも働けるような環境、ルールを作る

などなど。対症療法ではあるけどそんなものかもしれない。

 

自分は相当長く一つの場所にいるけど、それは偶然だし皆がそう出来るともすべきだとも思わない。ただそれが出来た原因はただ一つ、愛のようなものだと今は思う。もしくは盲目と言ってもいいかもしれない。辛い時期も長かったしずっと楽しいかと言うと当然そんなことはなくて。それでも辞めずにいたのは「自分のもの感」と自分が呼んでいるものであり、自分のものだから何とかしたい、という気持ちしかない気がする。合理的に考えればもっと選択肢はあるはずなのに。

これだけ流動的な世界になっているわけだから、人は色んな世界を見るべきだと思う。広い世界を見聞きするということは、人がこれだけ旅行したい生き物だということを考えれば当然の欲求なように思う。ざっくり、2-3年くらい?そのくらいで一つの何かを成し遂げて次に進む。そう言う人を受け入れてまた次のステップに進み、ゆるやかなネットワークを自分や自分の会社の周りに作って行く。それがいまの自分達に必要な働き方と言うか会社と個人の関係なのかもしれないなぁ、と思うのでありました。まる。