キュレーションの時代に続いて、当事者の時代。憑依する(他人が言ってることにする)のではなく当事者として自分のことを語りなさいよ、と言うお話。「普通」とか「一般」とか「みんな」とか、そういう言葉の定義にずっと違和感があった自分にとって、その違和感の謎が解けたのでとても面白かったです。
マイノリティ憑依
憑依ってなんやねん、と言いますと、「他人の気持ちを勝手に代弁する」と言うことであると本の帯に書いてありました。メディアなどの言論は被害者や弱者(=マイノリティ)に「憑依」して、さも彼らが語っているように言うけど、その弱者って本当に存在するの?メディアが自分の都合いいような形に作り上げてない?と言う話。そういう極端に歪められた言論ではなく、これからの時代はみんなが「当事者」として発信して生きていくのがよいのではと言う話。(だと思う)
佐々木さんは「当事者たれ」と言うこと自体が各自の当事者性を失わせる、と書かれていましたが、最初は言われて当事者となったと人でも、やがてきっと自発的な(真の)当事者になれると思うので「当事者たれ」と言えばよいと思います。
「みんな」って誰のこと?
昔から「みんな」とか「一般人」とか、他人をを抽象的にまとめて指す言葉がどうにも違和感があって苦手なんですけど、これを読んでる方々はどうでしょうか。メディアや人の話の中に「みんなこう言ってるよ」みたいに書いてあると、「みんなって誰だよ」と突っ込みたくならないでしょうか。僕が感じていた違和感は「当事者」と言う言葉を使うと
当事者以外が当事者をカタっているから
です。本来他人のことなど完璧に理解出来ないんだから、他人のことをどうこう言うこと自体がそもそも不可能なはずで。当事者以外は当事者のことを正確には語り得ないと思うわけです。
とは言え
とは言えね。みんながみんな全てのことを世の中の人に向かって伝えられるわけではもちろんないから、誰かが誰かを代弁すると言うのは人類全体がコミュニケーションを取っていく上では不可欠ではあるはず。じゃないと世論は形成されないし、人間同士でコンセンサスを取っていくことが出来なくなってしまうから。
これからの時代、今までよりも個が意見や情報を発信しやすくなるので「当事者性」は発揮されやすくなって、結果、憑依して代弁された他人の意見はより正しくなっていくんじゃないかな。いつの日か、究極的には世の中の全員が当事者になって考えを発信するようになり、それを全てすくい上げることが出来る仕組みが出来るのかも知れない。それで初めてマイノリティ憑依は完全に消滅し、憑依は、正しい代弁となるんじゃないだろうか。今の技術とサービスの進歩を考えると、意外と早くそんな時代は来るのかもなぁ。まる。
<マイノリティ憑依>はしょせんはガス抜きの免罪符にしかならない。エンターテイメント化された免罪符--それこそが<マイノリティ憑依>の本質である。 - P.414
- 作者: 佐々木 俊尚
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/03/16
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