先週海外に行く前に押井守の本を読んだ。「コミュニケーションは、要らない」。「がんばろうニッポン」とかマジで意味無いよね、という話です。相変わらず極端です。
実は読んだのはこちらの本が先で、後から前作「凡人として生きるということ」を読んだのですが、やはり発売時系列順で書いた方がうまくつながったので、ブログもその順番にアップしています。この本は前作の中のコミュニケーション論についてを掘り下げて書かれたものです。
意味の無い感情移入
去年の東日本大震災を例に挙げて「感情移入に意味は無い」と。
「がんばろうニッポン」とか「絆」という言葉によって、世の中の何がどう変わったのだろうか。プラスの側面は例えば、その言葉が色んなところで語られたり見られたりすることによって被災地に意識が向き、具体的な支援を行う人たちが増えたことだと思う。言葉によって連帯感を得て、そこから意識を行動に繋げていく価値はとても大きかっただろう。
逆にマイナスの面は何か。例えば「がんばろうニッポン」って言うだけで具体的に何もしなくても支援しているような錯覚に陥ることが挙げられると思う。いや、何もしないこと自体が問題なのではなく、「何もしていないにも関わらずみんなで何かしている空気」が出来てしまって「日本全体で頑張ってるから、大丈夫だよね」みたいな空気になり、支援の手が止まってしまうことが問題じゃないだろうか。
今、必要なのは、そんな甘い言葉ではない。
何かを共有する必要なんてない。悲惨なことが起きたら、それを契機にしっかり考えることこそが大切なのだ。 - P.160
コミュニケーションを通じて、結局は考えること
不祥事が起きたら会社のトップを入れ替えたり、政治家を入れ替えたりすることにも、同じような側面があるのかも。別に不倫することと経営や政治の能力は本質的には関係が無いはずなのに、ある意味感情的に、変化させることによって本質的な問題が全部解決したかのような錯覚をしてしまうんだろうか。
倫理的にそういうことをするやつは信用出来ない、だから辞めさせたい、という気持ちは分かります。でもこういうのってやってることは言わば「ハラキリ」に近い気がする。結局は、コミュニケーションを通じて理解を深め、自分自身で考えることでしか問題は解決しないんだろう。前に書いた記事と同じような話です。(過去記事:知識の価値は?)コミュニケーションして感情移入して気持ちを共有した気になっても、確かにそれだけでは気は紛れるかもしれないけど、本質的には何も変わらなくて、さほど意味は無いんじゃないかって。
書いておきたいことは、感情移入して共感したつもりになって満足するのではなくて、そこから先の具体的な行動に結び付けていかないと何も変わんないよね、と言う話。「だよねー、そうだよねー。」ってマジで意味無い気がする。いや、少しは意味はある。あるけどとても薄い。
コミュニケーションを手段として捉えて問題を解決すると言うのは、自分にはとても合ってる気がする。「これだから理系は…」とか言われそうだし実際よく言われるんですけど、問題を解決することがまずは大事だと思う以上、やっぱりそういう結論になります。うーん、これはいかにもモテなさそうな考え方だなぁ。。全国の理系のみなさんすみません。
人間が考えるべきことなんて最終的にはひとつしかない。自分の人生とどう向き合うのかだ。 - P.173
- 作者: 押井守
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2012/03/30
- メディア: 新書
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