田舎の時間の流れ方(お墓参りオペレーション その2)

ここ半年くらい何度も奈良の実家に帰って来ているんですが、その度にゆっくりとした時間の流れを感じてそれがすごく心地よくて自分でも驚いています。家の庭とかめちゃくちゃ緑が生い茂っていて、だからか虫もいっぱいるし緑の香りもすごいです。こんなもの(とか言うと母が怒りそうですが)が素晴らしいと思えるなんて、十数年前にこの家に住んでいた時は思いもよりませんでした。ちなみに見れば分かりますが写真は奈良のそれではありません。

お墓参りオペレーション その2

お盆だし、親戚と一緒にお墓参りに行きました。もう何度繰り返したのか分からないですよね。このお墓にお参りして手を合わせて何かを祈ること。

従姉妹のおねーちゃんと還暦を過ぎたおじさんおばさん達の会話を眺めながら「なんでこんなに話すこと尽きないんだろうね」と話してたんですが、恐らく30年後には自分達もこうやって話しているのだろうなぁ、と言うことをおねーちゃんもきっと何となく感じていたと思います。

お墓参りについては去年も書きました。

いま改めて考えると、お墓に参るのも親戚で集まって雑談するのも大した「意味」なんて別に無いと思うんですよね。あるとすれば「そうしたいから、そうする」と言うだけで。ほんとにただそれだけなんですよ。家族揃ってご飯を食べるのも、日がな一日どうでもいいようなことを話すのも、意味とか言わず、ただそうしたいからそうしているだけなんだと思います。それはある意味で贅沢な時間の使い方なんだけど、ここにいる限り別に贅沢でも特別でも何でも無いのです。

イオンと言う、街

ご多分に漏れず、うちの実家の近くにもイオンの大きなショッピングモールがあります。10年くらい前に出来たと思うんですが、自分が通っていた通学路とか近くの建物とかがばっさり取り壊されてこれが出来たのは記憶に新しい。こういうショッピングモールの存在が良いか悪いかは人によって捉え方が違うでしょうが、これによって地域の人の生活は物質的に豊かになったし、大量の雇用が生まれたのも目にしているから僕から見るとさほど悪いことのようには思えません。

実家の友達と話していて思うのは、こういうモールの存在は東京や大阪における「街」の概念とあまり違いが無いと言うことです。レストランも、喫茶店も、服を買うところも、映画を見るところも、CDやおもちゃを買うところも、おしゃれな雑貨を買える店も、、何もかもこの中には揃っていて。東京に住んでいて「渋谷か新宿に出かけよう」と思うことと、この土地における「イオンに行こう」と言うのは何も変わらない概念なんだろうなと思います。だからダイヤモンドシティと言う名前は本当に「シティ」なのだと。

電車30分の移動距離で何もかもが手に入ってしまう世界だけが、世界の全てでは無いのですよね。

時間の流れ方の違い

いつから、全ての物事に意味が無いといけないと錯覚していたんだろう。別に目的無く生きたって、色んなものに囲まれて生きなくたって、競うように何かを手に入れなくったって別に構わないんですよね。本当はもっとのんびりと暮らして生きたって別にいいはずなのに。都会、とりわけ東京で生活していると人の密集度もすごいし、みんな忙しく「何か意味を求めて」生きている気がします。会社だって友達だって、地域の生活だってそういう感じがします。

ひとところにずっと住み続けると言うことには、自分の世界を固定化する作用があるのでしょう。時間の流れはこんなにもゆっくりにもなり得るし、忙しく何かに追われるように生きることも出来る。自分にとって何が一番豊かなのかはまだちょっと分かりません。でも日々の生活のことを重く考え過ぎたり、仕事に対して責任を持ち過ぎたり、「何かをしなきゃいけない」と思うことはきっと精神上よくないと思うし、そんな必要なんてどこにも無いのですよね。

世界をどう捉えて見つめるかは人次第です。その見方がみんな違うから、人の数だけ世界は存在していて、同じ世界であってもある人にとっては幸せで、別の人にとっては不幸せになり得ます。そんなことはみんな分かっているはずです。全然違った世界の在り方を見て、客観的に自分を見直して、より良い選択をしていくことが出来るのであれば。それだけでも自分にとっての 田舎 の存在は貴重だしそこにこそ意味が見出せるなと、だらだら過ごしながら思ったのでありました。

以上、世界のはざま、奈良の地方都市からお送りしました。