特別でないただの一日


Just a diary but here is English version today!

"My last blog post was read 10,000 times only a day!" I told to my teacher in GABA. He said "Great!" and recommended me to write blog in English even just a little, so I'm writing this blog with not so good English. Here is my today's wonderful schedule! After going to GABA in this morning I came to Yokohama and bought a present for my friend. At Yokohama I had a lunch and write this blog while sitting on a bench in a park near the see. And tonight I will attend a concert (game music only concert... ). After finish all my schedule, I'll make a presentation for a meeting on Monday. How great day is today! But these days I'm always spending a time alone...

But at this moment I realized I needed three times as much as when written in Japanese... so please read in Japanese from here.

ほんとにただの日記です in Japanese

珍しく横浜に来て、お昼何食べようかなと思って探してたら10年くらい前に行ったことのあるラーメン屋を発見したのでつい入ってしまった。駅からちょっと歩いた所にある「吉村家」と言うラーメン屋。10年ほど前、友達と東京まで旅行に来たまだ学生だった頃のこととか、芋づる式に色んなことを思い出してしまってなぜかすごく懐かしい気分になってます。今日の記事のタイトルはその当時みんなでハマってた小説のサブタイトルから。

そしていま上の写真の公園で一人ピクニックしながらPC広げてこれを書いてるわけですが、家からちょっと30分くらい電車乗ればいつもと全然違った場所で新しい気分に浸れるんだから、やっぱり東京は良い場所だよなぁ、と改めて思うんですよね。ビルの真ん中にも行けるし、海のそばにも行けるし、山に囲まれたどこかにも行ける、と言うのは奈良の田舎にいたら出来ないことだし、これはすごいことだ。

こういう週末の自由を満喫してると、なんのために日々汲々として生きてるのかよくわからなくなって来ます。毎日通勤電車に乗って、決められた時間から時間まで人生で二番目に楽しいことのために時間を使うのってすごくもったいない気がして来る。前回のブログにも書いたように(いつも書いてるけど)自分が一番好きなことのために人生の時間を使えていないとしたら、そりゃもう嘘ですよね。毎日好きなことしてちょっと日記書いて、生きてけるだけのちょっとのお金があればそれで満足なのにな。お金貯めてあと数年で実家に引きこもるプランと言うのは、意外と現実感ある気がしてます。

そうそう、今日は夜に「信長の野望」のコンサートがあるから横浜に来たんですよ。完全限定の招待制なのです。平原綾香とか出るみたいなんだけど、ゲームのユーザ層から考えて90%くらいおっさんだろうなと思うとなんか今から笑えてきます。信長シリーズは音楽自体がとても良いので、すごくたのしみ。菅野よう子の曲とかあるかな。

あと、今日は家帰ったらStarcraftをやる予定。でも最近大航海時代Vを始めたけどこれも面白いから迷うところです。以上、ほんとにただの日記をお送りしました。まる。

Starcraft II: Wings of Liberty (輸入版:北米)

Starcraft II: Wings of Liberty (輸入版:北米)

コンテンツが無料で手に入る時代に人がお金を出してしまうもの 〜Comic Walker(コミックウォーカー)と言う革命〜


(※いつだったかお台場で撮った写真)

コンテンツ自体は無料で手に入る

今日KADOKAWAからComic Walker(コミックウォーカー)と言う新しいWebコミックサイトがオープンしました。無料で200タイトルものマンガが読めると言う恐らくウェブコミックとしては過去最大規模のものです。これは本当にすごい。「革命」と言う言葉が使われていますが海外メディア含めて取り上げられている所を見ると確かに圧倒的です。規模と力の入れようが。

最近だと似たものとして先日マンガボックスと言うアプリがDeNAから出ていてこちらも人気のようですね。CMもやってるらしいですし(TV見ないのでわからず…)。この流れでいくと恐らく色んな会社から「無料で」コミックコンテンツが提供されるような時代になっていくんじゃないかと予想されます。どちらのコミックサイト/アプリもビジネスモデルは明らかではないですが、おそらくはフリーミアム(基本無料で一部有料)な形になっていくのでしょうね。

これっていわゆるケータイゲームの世界と構造が同じじゃないでしょうか。基本プレイ無料でガチャとか連続プレイに課金すると言う。ゲーム業界もコミック業界も、既存メディアでのユーザ人口が減って来たところに歯止めをかけるための一つの方法として新しい形を模索している、と言うことなのだと思います。

そして有料になるのはいつも「時間」

マンガボックス、最初の頃はリリースされた全てのコミックが「いつでも全部読める」状態だったのが最近になって過去のものが消え始めました。他のコミックサイトも同じく「いつも見ているなら最新のコンテンツは無料で読めるよ!」と言う状態であるものの、徐々に古いものは見えなくなっていって、過去に遡りたければ「電子書籍買ってね!」と言うビジネスモデルです。いつもリンクしますがこの記事のような話。

あえて対比するならどちらも時間にお金を出しているものの、ゲームの場合は未来を買って、コミックの場合は過去を買っているような感じかもしれません。

ソーシャルゲームの場合にお金で買っているのは「未来の時間」であり、時間を早めるような効果がある。「何時間待たなくてもいい、やりたい時にすぐ出来る」ことが価値になっているから。それに対してコミックの場合、過去のストーリーを電子書籍で買うと言う行為は「あの時の時間に戻る(読み放題だった1ヶ月前に戻る)」ためにお金を出している感じで、それは「過去の時間」を買っているとでも言えるのかもしれません。

だとすると、ビジネスとしては未来への投資の方がえげつないですね。なぜなら未来は「無限」なので。その無限性こそが重課金ユーザが生まれる理由でしょう。他者との競争心と煽られまくった射幸心の分だけ、そのエネルギーを無限に投資出来る「余地」がある。そこがモデルとしてすごくよく出来ている。逆にそれに対して過去の場合は限界があって。例えばコミックの場合だとサイトに掲載されている分の全てのコミックを買ってしまえばそれで終了ですし、そもそも前提として自分が過去に読んで「おもしろかった」と思って「また読みたい」と思えることが前提ですから、そこはゲームと比べて健全と言うかなんと言うか。(そもそもゲームとコミックのモデルを直接対比するのに無理はありますけど。)

富の再配分としてのフリーミアム

お金があっても無くても、際限無く使ってしまう人がいるのはいつの世も変わらないと思います。が、こういう基本無料で一部の人だけ有料と言うモデルはある意味「富の再配分」なのかもしれない。

  • 普通の多くの人は無料で楽しむ
  • でも一部のお金持ちは高度な楽しみ方をする
  • そしてそこから得たお金でプラットフォームは回る

と言う。ビジネスなのでプラットフォーム側は儲かるようになっていかないと継続性は無いですが、プラットフォームもより儲かるように(維持出来るように)普通の人もお金持ちも楽しみ続けられるものを提供し続けるプロセスが回る、、これは至極真っ当な関係性だと思います。

ゲームはガチャや「時間制限ライフ」の仕組みによりビジネスを成立させることが出来ました。ではコミックの場合はどうなんだろう。やはりモチベーションを考えても「過去に対する投資」の力はソーシャルゲームのそれに比べて弱い。ソーシャルゲームで「くそおおお!」と思いながら勢いで課金することはあっても、過去の本の電子書籍を買う時に「くそおおお!」とは多分ならないから。買う理由は「もう一度読みたい」なので、多くの場合は一部のコレクターや熱心なファン、でしょうか。であれば基本無料で楽しめる枠を作った分だけ市場としては減少してしまうように思えてしまってならない。

そしてみんなが同じコンテンツの出所にお金を払う世界に戻るのか

しかしすごく可能性を感じるのは、一年後、二年後にコンテンツの供給元が巨大なコミックサイトのようなものに集約されていった時「少しお金を払うだけで全部手に入るなら払ってもいいや」となり得るところです。1万人が月に1万円払う(=1億円)ではなく、100万人が月に100円払う、と言うような。みんなが当然使っているようなモノであるのなら。

例えばかつてはどこの世帯でも「新聞」を取っていたわけじゃないですか。それって「情報がそこにしか無かったから」「当然みんな何か読むよねと言う空気」とか、いくつも理由があった気がします。ところで新聞のデータ、以下を見たらまだユーザいっぱいいるんですね。。驚いた。

マンガやゲームは別に「必需品」ではないですが、いずれもその文化が誕生して以来ユーザ数はさほど減っていないのではないでしょうか。ゲームに至ってはスマホやDSが普及して拡大している気すらします。少なくともいま30才の自分からすると、トータルの人口は周囲を見渡しても減っているような気はしません。

「ニュース」の価値が今のようにみんな「ネットで見れればいいや」となった背景には「みんなその程度しか望んでなかった」のか、「その程度で満足するようになってしまった」のか、他にも理由がいっぱいある気はしますけど、作るコストと「程度」が相関するものな気がします。一方エンターテイメントコンテンツと言うものはお金を出す出さない選ぶ選ばないと言うのは、基本的には程度問題ではないんじゃないでしょうか。「タダだけどそこそこ面白いコンテンツ」には多分惹き付けられなくて(無料のエンターテイメントコンテンツなんて無数にあるのに)、みんなコミックでわざわざOne Piece進撃の巨人も買っちゃうわけだし映画も見に行くわけじゃないですか。それは「有料だけど超面白いコンテンツ」が選ばれている一つの証拠だと思います。


結局何が言いたいかと言うと「圧倒的に面白いコンテンツを提供し続けると言うなら、その媒体にお金は払われるだろう」と言うことだけです。コミックとか絵とか、エンターテイメントコンテンツは多分誰かが簡単に代替可能なものではないような気がする。例えば1000タイトルのマンガが月額1000円で(100円で?10000円で?)家族でみんな読み放題なんです!これだけあればみんなたのしめます!!と言うようになるなら、払うんじゃないですかね。個別のマンガに対する課金とかでは無くて、Huluみたいな感じで。例えばワンピースとか初版で400万部とか売ってるってことはそれだけ捌けるわけじゃないですか。ワンピと進撃の巨人も含めて月額1000円で新しいもの出たら全部読めるんです!だったら1000万世帯が月に1000円(=100億円)払う、って十分あるような気がする(今の業界の売上規模とコスト構造分かんないからこんな規模でいいのかは不明だけど)。


繰り返しますがコミックウォーカーはやっぱ現時点で圧倒的にイケてると思うのは、量が色んなものを癒してくれると思うからです。これだけあれば多くの人の「お金払ってもいいかなライン」を超えられる可能性がある気がする。そしてガンダムエヴァもカラーで読めるってこれはほんとすごいことだよなー。今後も楽しみでしょうがないのです。

ゲームとマンガと言う自分自身の二大趣味がいよいよ無料の世界になってきて、エンターテイメントを享受する側としてはすごく楽しいです。せっかくだからそれらの良い未来に関わっていくような仕事をしていきたいなぁ、と改めて思うのでした。まる。

まどマギを今まで見たことなかった希望と絶望と自業自得

予定の無い日曜だし、どこか出掛けるか家で映画かアニメ見ようと思ってて、昨日また兄に勧められた「まどか☆マギカ」を一気に見ました。DVD6枚、大体4〜5時間くらい。

なんで今まで見てなかったんだ…

何年も前からおもしろいおもしろいと言われていたしいつか見ようとと思ってたんですけど。前評判を聞いていてもなお期待を裏切らない展開で「何で今まで見てなかったんだ…」と言う感じです。ストーリーの展開も音楽もすごく良い。魔女のシーンの描き方とかは何とも言えない不気味さが出ててゾワゾワします。

解説はwikipediaがかなり詳しいのでこちらを参照。はてブもいっぱい付いてますしこの記事自体かなり洗練されてますね。

希望と絶望と自業自得

あれだけ話題になったので多分もう、ありとあらゆる角度から世の中では分析されているとは思います。個人的に一番すごいなーと思ったのは希望と絶望の描き方です。

鋼の錬金術師とかと同じ「等価交換」の概念と言うか、何か希望を持つとその分の絶望が世界に増えると言う。キャラ的に好きなのは佐倉杏子で、第7話の以下の辺りの台詞とか印象的でした。

「奇跡ってのはタダじゃないんだ。希望を祈れば、それと同じ分だけの絶望が撒き散らされる。そうやって差し引きをゼロにして、世の中のバランスは成り立ってるんだよ。」
「アンタも開き直って好き勝手にやればいい。自業自得の人生をさ。」
          ーー佐倉杏子 まどか☆マギカ 第7話より

軽い口調で言ってるんですけど全然軽く無い話で。これって他人に希望を持つこと(=期待すること)の戒めと言うか、絶望から自分の精神を守る術の話です。このブログで書いた話で言うと以下が近いです。

他人のために魔法を使わないと言うのは恐らくこの世界において自分を守れる最高の方法であるはず。自分に対してのみの魔法や希望であればどれだけ希望が打ち砕かれようともそれは自己責任の範囲内で、納得ができるはずなんですよね。であれば世界を呪いながら絶望することは多分、そんなに無くて。そう言う意味で「自業自得の人生」ってすごく良い表現だなーって思うんです。たとえ他人に期待して希望を持ったとしても、それを自業自得だと心の底から思っていれば何も呪わなくていい(日常生活で言うと「怒らなくていい」でしょうか)とすれば、それってすごく健康的な生き方だし、世界は平和になるもの。

例えば第3話のマミさんの台詞でこういうのがあります。

「あなたは彼に夢を叶えてほしいの?それとも彼の夢を叶えた恩人になりたいの?」
          ーー巴マミ まどか☆マギカ 第3話より

どちらが良い悪いではなく。この問いに対する答えを自分で確固たるものとして持つと言うことが、自業自得の人生を生きるということなのだと思ってます。悲しみは世界から消えないと思うものの、怒りは消せるとやはり思うのですよね。そういう生き方がしたい。


それでもキュゥべえの言う「熱力学の第二法則を超える」と言うことが、希望と絶望は等量で保存されるのではなく、持てる希望が絶望の量を超え得ると言うことをも意味しているのだとすると、このまどマギの話自体、救いがあるストーリーだよなぁと思ったのでした。

このアニメ、流行ってた時に見たらすっごくハマってたような気がするなぁ。見たのが時期を外した今で良かったのかもしれない。これも自業自得、と言うことですね。とりあえず映画版も借りて、近々もう一周見ようかなと思ってます。まる。

無限に連鎖するソーシャルゲームプレイ地獄からの脱出

やめるやめると言いながら全然ゲームをやめていない僕なんですが、結局ケータイでゲームをやってしまう人がどういう感じでゲームを連鎖させてしまうかと、それによって自分に起きてるなーと思う実害を改めて書いておきます。おそろしい。

プレイ時間制限と複数アプリ

これだけゲームが大量に出ている世の中ですから、遊ぶゲームには事欠かないわけです。無料であれ有料であれ。ここ一年くらいで僕がハマって10時間以上プレイしたであろうものはこんな感じです。

有名どころばっかりですね。流行りは知っておきたいと思ってまして。ゲームの詳細は省きますが、どれも凄く面白くてゲームとしてよく出来てます。ソーシャルゲームらしい(?)さくっと数分(数十秒)で1プレイ楽しめるので時と場所を選ばず、もう一回やりたくなる仕組みが完成されている感じ。その仕組み(ゲーミフィケーション)については今更語るまでもないです。

なぜ無限連鎖が起こるのか

こういうゲームには連続プレイ制限がかかるのが普通なのです。例えばパズドラだとライフが1回復するのに10分かかるので、都合数時間に1回しかプレイ出来ません。その他のゲームも全部同じです。連続プレイは制限されていて、もっと連続しようと思えばお金がかかる。これは以下の記事にも書きました。

複数のソシャゲで遊んでるとどういうことが出来るかと言うと、全部連続して遊ぶとほぼずっと遊べてしまうと言う話です(実際5つじゃ無限には無理ですが)。1つ目のゲームで10分、2つ目のゲームで10分…と進むと6本あれば都合1時間遊べるわけですね。で、基本的にプレイ後に待たされるはずのものが、1つ目のゲーム終わって50分くらい経ってれば下手すると1つ目のゲームは「もう1回」遊べてしまうわけです。で、それが終わったら2つ目も出来るようになっている…みたいな…。これは恐ろしいことですよ…。

つまり多分20, 30個あればずっと遊び続けられると思います。ライフの制限から解放されて!と言う錯覚。すげーずっと遊べる! でもその解放感、自分で作った縛りから解放されてるだけなのに…!!。

携帯であることがおそろしい

携帯ゲーム機じゃなくてケータイでゲームが出来ると言うこと。「そりゃ業界的にはプレイ人口増えていいよねー」くらいにしか思ってませんでしたが、本当の意味ですごかったのは「いつでもどこでも、例えば信号待ちの1, 2分でも、会議中の妙な間の30秒でも、トイレに入った数分間でも出来る」と言うことだったのだと思います。プラスに考えれば「今まで死んでいた細切れの時間が全て生きた!」、マイナスに考えれば「細々とあった思考の時間が全てゲームに盗られた!」となると思います。上に書いたように連続してプレイ出来てしまうようなゲームですから、この無限ループから抜け出さないと一生隙間時間を全て献上することになり、気付けばトータルで数千時間使っていたなんてことになりかねない気がします。

思考の糸が切れることがソーシャルゲームアプリの一番の害だと思う

上に書いたように、隙間の時間を奪われるってことは人間の中で何が起きているか、僕は「思考が途切れて時間の質が下がっている」と思ってます。こういうゲームやったことある人なら経験あると思うんですが、時間がちょっと空くと「ライフ回復したかな」とか思って開いちゃうわけですよ。「メタドラ出てないかな」とか(※パズドラです)。これは気がほんの少し逸れたタイミングでやってくる。その時まで何をしていたかに限らず、です。

人間と言うのは弱い生き物だなーと思うんですよ。特に自分がどちらかと言うとやりたくない、モチベーションが高くないことをやっている時、何か逃げ先があるとついそちらに逃げてしまう。そういう意味で「ケータイでゲームが出来る」と言うのが恐ろしいことだ、と思っています。いつでもどんな時でも逃げ場がある(←言葉にすると何か素敵な気がしますな)。でも一度そちらに逃げると戻って来るのにまた時間がかかりますから。仕事してても何も逃げ先が無ければ、思考は続けざるを得ないはず。こういうこと言ってる人はなんだかんだで逃げ先を用意しそうなもんですけどね。

毎度ソーシャルゲームやりまくっては自己否定する僕が言いたいこととしては、「ゲームはほどほどに」と言うことだけです。ソーシャルゲームと言うくくりで語られていたスマホのゲーム達、特にネイティブアプリになってからはそのクオリティはもはや今までのコンシューマゲームとさほど違いは無い気がします。プラットフォームが変わってもゲームは進化し続けていくものですね。それ自体はファンとしてとても嬉しいです。僕自身ゲームは一番の趣味だしこれからも続けますが、やっぱほどほどにしないと上のような「逃げ」ばっかりになるよなーと思うので、今年は少し控え目にしたいと決意を新たにするのでありました。まる。(←決意を新たにすることほど無意味なことは無い)

ソーシャルゲーム関連記事はこちら

ちなみに辞めたい人は一番上の記事がおすすめです。経験から言うと「アプリを消す」しかないと思います。人間なんて弱いですから。今日からもうゲームやらない!とか思っても「ログインボーナスの魔法石だけ…クリスタルだけ…」とか思ってついやってしまうものなのですよね。

クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ

クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ

Candy Crush Saga

Candy Crush Saga

稼ぐほど使うほどに軽くなるお金の価値(カイジ「命より重い!」お金の話 - 小暮太一)

少し前の本ですがカイジを最近読み直してる流れで読んでみました。新作も出てるみたいですね。「マネーリテラシー」と言う言葉が何度も出て来るように、お金についてのリテラシー、基本的に知っておくべき考え方の本として面白かったです。「カイジから得られる教訓」と言う流れで書いてあるのである意味カイジの解説本としてもいいかもしれません。

限界効用逓減の法則

「お金を使うほど1円の価値が軽くなる」と言う表現があってなるほどそうだなと。いくらお金を稼いでも「豊か」にならないのはこれが本質的な問題なのではなかろうか。確かに高校生の頃は通学定期の範囲外で電車に乗ることすら躊躇していたのに、今や「時間の質が…」とか良いながらグリーン車乗るとか言ってるわけですから、お金の価値は収入や日々使っているお金によって大きく変化していることは間違いありません。

限界効用逓減の法則と言うのは、同じお金をかけ続けたとしても慣れてしまってどんどん満足出来なくなっていく、と言う一般的な心理と言うか感情を表した法則の名前です。元は経済学の用語らしいですが色んなことに当てはまります。

人間の欲望ほど際限が無くてコントロールが出来ないものも無いのかも知れません。「足らんわ!まるで…!」と言うカイジの登場人物、兵藤会長の言葉にあるように、欲は多分尽きることが無く、少しでも良いものを、新しいものを、たくさん求め続ける欲が、同じものや現状で満足し続けられないことの根底にある気がします。「欲」自体が活力になって人が生きていることは間違い無いのに、それによって結局苦しみ続けると言うのはなんかもう、間抜けな気がします。これって仏教で言うところの業のようなものかも知れません。

頑張った自分へのご褒美!

本ではこういうご褒美指向こそがいつまでも満足出来ない現状を作っていると書かれてます。でもこういう言葉を見るたびに広告のキャッチコピーってほんと偉大だなと思うんですよね。広告に限らず消費者向けの企業なんていかに一般消費者からお金をもらうか(悪く言うと「搾取する」か)しか考えてないわけですから、耳障りの良い言葉と言うのは最終的には企業のためになっていると考えるべきで。別に嘘ではないにせよ適正に判断することは消費者側にリテラシーがないと、企業に負け続けるだけになりますし。毎回ご褒美あげてたら、と言うかお金を使うこと自体を目的化し正当化することは、自分の感覚を麻痺させているだけに過ぎない気がします。

結局のところマネーリテラシーとしては「ちゃんとお金の収支を(未来も含めて)考えて使う」に尽きます。そのペースで使い続けて今後の収支が合うなら(リスク含めて許容範囲で)いくら使ってもいいし、逆に余裕がないのであれば出費を抑えるか収入を増やすかしかありません。それの計算をちゃんとみんなやれるようになりましょう、と言うのは至極真っ当でみんな勉強してしかるべきことかなと思いました。

働き続ける力

自分に自信を持って、余裕を持って生きていこうと思うとこれしか無いんだろうなと僕も思ってます。使ってもまた稼げると言う自信さえあれば、いくら使ったって本当はいいはずなんですよね。それは言い換えると「自分の欲を満たせるだけのお金を、自分で稼ぐ自信がある」と言うことのはずなので。どうやったって自分は生きていけると言う自信を持てるのであれば、色んな欲の呪縛からも解放されるのかもしれません。(その状態を本当に幸せと感じられるかどうかは分かりませんけど)

じゃあどんな仕事が、働き方が、ずっと働き続けられる形なのかと言うともちろんそんなものは誰にも分からなくて。過去の世界を振り返って考えるなら、大企業で勤めることや、あるいは難しい資格職なんかは継続出来る確率は高そうな気はします。でも本当に大切なのはそういう外的に規定される要因ではなくて、周りの環境が変わっても仕事自体を見つけられるような柔軟性とか、あとはもう根性のようなものなんだろうなと思います。ダーウィンの進化論は仕事においてもきっと正しいはず。そういう意味ではカイジもきっと正しいし、しぶとく生きていける系の人間な気がします。だからカイジは現代におけるリアリティのある、現代における「ヒーロー」なのかもしれません。

「迷ったら変化を取れ」 - 本書の最終章より

カイジ「命より重い! 」お金の話

カイジ「命より重い! 」お金の話

有料の特急列車と新幹線のグリーン車の存在意義

「特急ってすごく高く割にそんなに到着時間変わらないじゃないですか。何であんなのがあるのかよくわからないんですよね。」
「そう?私は特急に乗れる時は必ず乗ることにしているの。時間は少しでも買えるなら買うべきよ。あなたにもいつか分かるわ。」

        • -

あけましておめでとうございます。僕の人生には何人か師匠と呼べるような人がいますが、その内の一人の方と15年くらい前にそういう話をしたなと言うことを思い出しながら、実家に帰るべく年末に近鉄特急に乗っておりました。

例えば実家の最寄りの近鉄大和八木駅から近鉄京都駅までは、到着時間で言うと特急(1730円)で48分、急行(860円)で61分なので13分しか変わりません。これに870円も出すのは果たしてどんな意味があるのでしょうか?

時間の質の差

結局これに尽きます。プライベートはさておき仕事にその移動時間を充てることを考えると、急行や普通列車だとPCを広げることも出来ないし書き物をすることも出来ないし、資料を広げるのも人目が憚られます。なのでせいぜい本を読むか携帯をいじるか、誰かいるなら小さい声でお喋りするとか。そんなことしか出来ない気がします。

しかし自分の目の前にPCやモノが置ける机があって、人にも見られない半個室の空間が出来るとしたら。そのままでは死んでしまう61分を、生きた48分にすることが、870円で出来ると考えるなら、これは決して高いようには思えません。むしろ時間を買えていると考えるなら圧倒的にお買い得です。

新幹線のグリーン車というもの

普段は乗らないんですが帰省の東海道新幹線の指定席を取ってなかったので、今回はやむなくグリーン車に乗ったんです。一度経験として乗ってみるのもいいかなと思ったのもありますし。そしたら年末の激混みの時期なのに空いていて、見るからにお金持ってそうな人や、どう見てもプロスポーツ選手っぽい出で立ちの人とか乗ってました。東京から関西に一番「質が高く」移動出来るのは恐らく新幹線のグリーン車か、飛行機のビジネスクラスとかでしょうから、当然と言えば当然なのかも知れません。

この場合の値段は自由席だと13720円なのに対してグリーン車だと+5150円の18870円です。時間は当然変わらず。この5150円で得られるものと言えば、混んでない空いた居心地の良い静かな空間と、妙に座り心地の良いイスや普通車よりやや広いスペース、あとは全席に備え付けられた電源でしょうか。あ、おしぼりも出て来ましたそういえば。

そして、使い分け方

別に急いで無いし友達とお喋りしながら移動するなら普通の電車でいいと思うんですよね。その場合にあえて乗るのはむしろ人生の堕落(←最近自分の中で流行しているワード)だろうと。それでも時間の単価が高い人とか、こういう社内環境を必要とする人は必ずいるだろうなぁ、と言うのは今ではよくわかります。多分飛行機でも同じだろうと思います。

と言うわけで、お金をかけてでも時間の質を上げて「生産性」を上げると言うのは、えらくなるためにはきっと必要なのだろうなぁ、と言うようなことをこの年末は思ったのでした。そして自分の日々の時間はまだまだ密度が薄いし、ぬるいなぁ、、と言うことも。まぁ、あまり気負わずに今年は気楽に行きたいと思っております。(←抱負)

今年もよろしくお願いいたします!

英語を話し始める勇気と恥の文化 ES#032

先週、昔の部署の先輩から「今度海外赴任する子がいるんだけど、まんとる君のゼロからの英語勉強法教えてあげてくれない?」と言う連絡があって、少し会ってきました。人に教えられることなんて何も無いんですが、、と思いつつ「まんとるぽっとのenglishタグが付いた30記事読んどいて下さい」と言っておきました。

最近ブログに書いてませんが、実は英会話はまだ粛々と続いていて、英語の勉強もずっとやってるし外国人の友達とも遊んでます。都合1年半かなぁ。「何も話せない」と言う壁を越えられた点だけは先輩だと思うので、そのことを書いておきます。

一にも二にも、勇気だ

根性論じゃないんですが、事実として。

  • 英語はそもそも得意じゃないし好きでもない
  • 理系の知識とか学問、技術は結構好き
  • でも人と話すこと自体は嫌いじゃない

まぁ、僕のことなんですけど。例えばずっと学生の頃から理系で生きて来てそのままそっち方面の会社に入った人とかには割と多いプロファイルのような気がしています。そういう人にとって特に伝えたいのがやはり「勇気」について。勇気があれば日常生活や、ビジネスパートナーと英語でやり取りするくらいの英語は身に付く気がします(相手とコミュニケーションする時に、仕事で必要な知識は既に持っているので。)

海外の人は勇気があるし、あんまり恥ずかしがらない

海外に行っても母国語じゃないから英語上手く無い人はいっぱいいるし、恥ずかしそうに自信無さげに喋る人はいます。でも例えば中国とか韓国の人がすごいなーと思うのは「少し間違っててもガンガン来る」と言う点です。そういうのをもっと見習うべきだなと。出来れば正しい言葉を使いたいのはみんな一緒です。でもそれに固執して「そもそも喋らない」のは本末転倒です。何も伝わらないですから。

これは一緒に仕事してるアメリカの人に言われたことですが「何も話さないよりは間違ってても話してくれた方が訂正しようもあるし、少しは分かるよね」と。そりゃそうだ!日本人の奥ゆかしさと言うか、人目を気にする性質、国民性とでも言うんでしょうか。「人と違ったこと(間違ってると思われるようなこと)すると、なんか恥ずかしい」と言う意識がある気がします。いわゆる「恥の文化」ですね。自分も中学校高校の英語の授業なんてほんとそうだったし、「間違ったこと言ったらどうしよう」「なんか(下手な)英語で喋ってるとこ友達に聞かれるのがそもそも恥ずかしい」みたいな意識がすごく強かったのを覚えてます。

そういう謎の同調圧力ってほんといらないんです。自分の子どもが出来たら多分無理にでも英語で話して恥ずかしさ克服してもらうと思います。「むしろ何も話さないことの方が恥ずかしいわ!」ってことを知って欲しい。友達に笑われたとしても、大人になって英語もろくに喋れない大人になる方がずっと恥ずかしいですから。(子どもにそのまま言っても納得しないだろうな…)

まずは30分くらいお話ししましょう

実際、今回会った彼も恥ずかしがってたものの、いざ話し始めたら全然普通に話せてました。まぁ、そんなもんですよね。きっとそういう人は後は大丈夫な気がします。

英語の勉強始めたいけど始められない、話してみることが出来ない人は、誰でもいいから捕まえて30分くらい話してみるといいんじゃないでしょうか。そしたら「英語とか言うと何か特殊な気がしてたけど、これって実はただ"話してる"だけじゃね?」って気付けると思います。日常会話するのに恥ずかしい人ってあんまりいないと思いますから。

        • -

年明けに、アメリカの真ん中から東の方に行ってきます。一度行ってみたかったからたのしみ!向こうの秋葉原みたいなスポットを見つけて向こうのオタクと仲良くなりたい…

萌える英単語もえたん

萌える英単語もえたん

まんとるぽっと英会話シリーズ!