戦友との別れ(お墓参りオペレーション その5)

会社で2011年〜2016年?2017年?くらいまでの長い間働いてくれていた人が突然亡くなったので、火曜日にお葬式に行ってきました。厳密にはお墓参りではなくお葬式なんだけど、同じシリーズとして書いておきます。

-お墓参りオペレーション
-田舎の時間の流れ方(お墓参りオペレーション その2)
-供養する人される人(お墓参りオペレーション その3)
-今の自分の礎になっているもの(お墓参りオペレーション その4)

 

Sさん

気のいい陽気なおじさんで、みんなから愛されていた。飄々としていつもお酒飲んだりタバコばっかり吸ってたけど、別の大きな会社の取締役をやっていたこともあり結構すごい人だった。「そんなの、てきとーでいいんだよてきとーで!」とか、「君はどうしたいの君は」っていっつも言われてた。でも今考えるととても本質的なことしか言わない人だったように思う。

よく思い出すのは、今の会社で作っているサービスの最初期バージョンの検討をしていた頃「商品ってのはパンフレットから作るんだよ!」ってずっと言ってたこと。当時はあんまりピンと来なくて。「そういうもんですか」って聞き流してしまってたけど、今ならわかる。お客さんに何を言いたいのか、なんで買いたくなるのか、なんでこれを使うべきなのか、、ということがちゃんと伝わらない商品は、実質的に無価値であり。ちゃんと買う必要があるものをそもそも作る必要がある、だから出口である「パンフレット」からやるべきなんだと今ならよくわかる。(たまに自分でもメンバーに言ってる)

 

ゲーマーとして

ずっと二人でお昼休みにゲームしてた気がする。よく覚えてるのはモンスターハンター3とか、ドラクエモンスターズ(たしかJoker)、あとはドラクエ10とか。ドラクエ10に至っては僕の方がついていけなくなって一緒に遊べなくなってしまった記憶がある。スプラトゥーンも確かずっとやってた。

ニンテンドースイッチの機能で、友達がログインすると「xxがオンラインになりました」って出るんだけど。会社を卒業してからもずっとそれが出てくることで「元気だなーって」いつも思ってた。2023年に入ってからもスプラトゥーン3とかポケモンバイオレットをやってたはずで。僕がスプラを家族とやってると、部屋に足跡をいっつも残してきて「xxが入室しました!」ってログばっかりスプラのログに残ってた。(でも一緒にはプレイしない)

子供たちが「このxxって人誰?」っていつも聞いてくるし、久しぶりに会いたいなって思っていた矢先のことだった。これはとても悔しい。

 

お葬式

生田、という駅の近くに住んでるっていうのは前に聞いていて。お葬式はその近くだったので「ずっと同じ家に住んでたんだなー」って思った。昔からいる会社の仲間数人と一緒に向かい、お別れをした。うちの会社に昔いた人たちが大勢いて懐かしかった。

これは10年以上前にも書いたけど、お墓参りにせよお葬式にせよ、こういうイベントは亡くなった人が生きてる人たちを結びつけてくれる大事なイベントというか、貢献だと思う。だってこういうことが無ければ僕も会社の同窓会みたいな形でみんなに会うことはなかったから。

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「ひさしぶりですね!また近いうちに会いましょう」って言っても、どれだけの人が本当に会うのかはわかんない。でもこうやって結びつけてくれたことはとても意味があるし、過去を振り返りそしてまた未来に向かって生きていく、今を生きている人たちのためには絶対に必要なこと。今日は会社の査定会議があってどうしても出ないといけなかったんだけど、、一人だけ遅刻してメンバーには申し訳なかったものの、ちゃんと行ってよかった。

 

感謝された

結婚もされてなくて一人暮らしだったし、SNSとかもやってないし、あと突然のことというのもあり。僕が訃報を聞いたのも偶然に近かった。自分が知ってる、彼と仲良くしていた人にこの件を伝えまくった結果、多分10人か20人はそれだけで参加者が増えたように思う。そして、お葬式が終わって意外なくらい「教えてくれて本当にありがとう」という連絡が来た。

そりゃそうだよな、と思う。多分この場自体、文字通り最後のお別れなわけだし。もう故人と話すことは出来なくてもまだ一番、その時にできる偲ぶ方法としてはこれが一番だったはずで。そう思うともっと色んな人に伝えてもよかったのかな、なんて思う。

 

お葬式の会場に行くと、遺品が色々と置かれていて。スプラトゥーンのamiiboや、うちの会社を卒業する時に渡した寄せ書きが置かれていた。しかも僕と彼が一緒にBBQしてる写真のページが開かれてた。さすがに泣いた。ニンテンドースイッチのフレンドリストの一番上に彼が残ってる限り、ずっと忘れないと思う。スプラトゥーンが4になっても5になってもまた「僕もうS+になったよ〜」とか言うんだろうなーって思い出す気がする。そうやって自分の中に生き続けて欲しい。彼もまた今の自分を育ててくれた恩師の一人なので。

オーストラリアにて

いやまぁ、僕は行ってないんですけどね。奥さんと上の二人がオーストラリアに2週間ほど行ってまして、今日帰って来ます。3人にとって中々無い経験だと思うし、残った僕と下の子二人にとっても良い経験だったと思います。

 

彼らにとって、日本語が通じないところで半月もいるというのはそれはそれは異世界だったのではないかなと。僕でも最長で1週間ほどしか滞在したことないので羨ましい限り。。若いうちに世界は広いということをちゃんと実感すれば、そもそも日本にこだわって生きる必要ないよね、ということに気付けると思う。知識と経験が無ければ何かを判断することなんて出来ないわけで。そのためのベースになるものを手に入れられたならよかったと思います。世界は広い。本当にただそれだけ。

 

こっちはこっちで、いわゆるワンオペ育児というものを久しぶりにやったのですが、これも慣れみたいなものがあり。ご飯も作りに来てもらったりしたのでそこまで大きなハードルは無く。むしろ一人しかいないとあまり構ってあげられず子どもたちの精神面が大丈夫かな、というのが一番心配だったけど半月ほどならどうやら全然大丈夫なようでした。ただ、さすがに全然出かけないのもなーと思って平日に休み取っていちご狩りに行ったり大きな公園に行ったりして、これはこれで3人の思い出になったと思うのでよかった。でも田舎の方に行くと駅にエレベーターなかったり、電車やバスの本数が少なくてそれがシンプルにつらかった…。

 

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2週間だったけど、こうやって「いつもと違う2週間」って区切って捉えることが出来たということ自体がよかったように思う。自分にとって上のこと以外の新しい体験も出来たし、仕事も期初期末を挟んでいろんなことがあるし(いろんな人を送り出したり、新しい人がいっぱい増えたりした!)、半年くらい考えている件も進展があったり。あとは投資を始めたり。自分の仕事を新しく見直したり。大航海時代Originはじめたり。あとは、娘の代わりに高校の新入生と並んで教室の机に座ったり。。(ぜひ36人の新高校1年生+おっさん1人が教室で並んで座ってるのを想像してほしい…)

 

今回は奥さんがちょうど良いタイミングだったのと学校が春休みだったけど、こういうイベント自体別にどんどん作り出せるよなーと思う。イベントというかこういうことがあるのがむしろ日常になっていったらもっと自由だよな、とも。「子どもが大きくなったら世界旅行したいね」とかって、思う人もいるかもしれないけど、僕的には歳とってからそれやってもあんまり嬉しくない気がしている。今のうちから子どもたちも含めて世界中を旅しながら生きられたらもっと自由で幸せだろうなーなんて。

家庭のことでも会社のことでも同じじゃないのかな。自由を感じるために、感じられるように生きる。そのために色んな出来事を自分で作っていく。こういうのはわかりやすい、幸せを作るための仕掛けな気がするので。どんどんやっていきたいなと思ったのでした。経験したことが無いことを経験するために生きているわけですもの。まる。

みんなコミュニティの中で生きている

最近びっくりしたことがありました。会社のイベントで会社の新メンバーと話す機会があったんですが、彼がこのブログを読んでいたということ…!しかも過去の記事も。。はずかしい! でも全然嫌とかじゃなく、むしろありがたいというか。ブログ読んでうちの会社のこと悪く思わなかった、とのことなので少しは会社の役に立ったのかもしれません。

 

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会社のイベント、研修的なものをオフィスから離れたところでやったのですが。いわゆる非日常的な空間で、仕事を離れてやるやつでした。飲み会もあったり色んな催しがあって楽しかったです。その中で気付いたのが、自分が知らないうちに色んなコミュニティが社内に出来てるんだなーっていうこと。

ガンダムが好きとか、ゲームが好きとか、コーヒーが好きとか。(これは全部僕ですが。)まぁなんだっていいんですけど。この日もそれぞれ、飲み会に参加したり(飲み会も会場が何個もあったり)、電車乗って旅する人もいれば、スキーに行くメンバーもいるし、買い物や観光に行くチームもあったりする。誰かに言われることもなく自然発生的に、仕事でも趣味でも共通の何かがあれば何でもよくて、何かあれば人は集まってそれがコミュニティ(共同体)になってゆく。コミュニティへの参加は当然重層的なもので、誰しも複数の何かに自然に属しています。家族の輪、友達の輪、地域の輪、同じ職場の同じチームの輪…いっぱいありますね。

何かに属していることで帰属意識が生まれ、仲間意識が生まれ、良い意味でも悪い意味でもしがらみ的なものが生まれていく。逆に何にも属していないと何も失わない代わりに何も生まれなかったりする。会社をやっていて、どうやったら長く居続けられる会社になるんだろう、ということをよく考えます。最近の一つの答えは、彼ら/彼女らが会社の中で何かしらのコミュニティに参加していて、そこでの共通の何かを持てていれば、結構大丈夫な確率上がるのかなって思うわけです。

しがらみ、というととてもネガティブだけど、そこにいる誰かのためや会社のためお客さんのため、コミュニティに属することで何か自分にとっての楔というか、何か居続ける理由がそこに生まれるなら、それはもうありがたいことです。縛り付けるつもりは全くないけど勢いだけで辞めずに済むなら、それはお互いにとって良いことな気がするんですよね。なので新しく会社に入って来てくれる人たちにとって居心地が悪くない場所は作っていきたいと思います。それはきっとお互いのためなので。

怒る自分の感情の自己分析2

このエントリを書いたのはどうやら10年前のようなのですが、2が出なかったということはアップデートが無かったということ。自分の中では結構な真理だったつもりなんだけど、いまその2を書いてるということはアップデートされたということなので、それを書いておきます。

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期待が裏切られた時に怒る、ということが書いてあります。それはまぁそうなんですが、「期待ってなんやねん」というのが何とも抽象的で、何を期待しているのか長いこと言葉に出来ていなかった。

 

最近気付いたのは「まじめにやらない」ことに対してすげー怒ってるなということなんです。逆に言うと「真剣にやる」「全力でやる」「本気でやる」「真摯にやる」「最大限やる」ということが自分にとってとてもとても大事なんだなってことに気がついた。

仕事でもなんでも、ぶっちゃけ、結果は二の次なんですよね。出来る限りのことをやりきってくれさえすれば、どんな結果になっても全然腹も立たなくて。次頑張ろうねって素直に思える。でも、まじめにやらないのは結果以前の問題としてめっちゃくちゃ腹立つ。

 

社長として父親として、より良く生きていくために何が大事かってよく考えるんですけど。人間に出来る数少ないやるべきことというか、使命みたいなものって「本当に文字通り命を燃やしていると言えるくらい本気で生きること」しか無いと思うんですよね。上の娘にもつい言ってしまった。「とにかく本気で生きろ。そしたら何があっても全力で助ける」 きっと娘は(うわ、またおっさんが暑苦しいこと言っとる…)って思ってることでしょう。

 

真剣にやらないのって、もはや生きることへの冒涜というか。何やってんのって思ってしまう。だから、自分自身も大事なことは何でも本気でやりたいし、身近な人にはそれを期待してしまう。だから、大事なことに対して適当だったり手抜きだったり努力を感じなかったりするのが嫌なんだなーと。自分は、ちゃんと生きてる人と一緒に生きていきたいと思っている。そういえば結婚しようと思ったのもそれが一番の理由だった。彼女たちはとても真剣に生きていると八年前に思ったのだった。

 

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まじめに全力で生きることを期待する。別に無理してほしいわけじゃなくて。能力も経験もスキルも違うからね。でもそれでも、ちゃんと力を尽くしてほしい。それだけでいい。ちゃんとみんな頑張ってるって信じたいだけなんだよなー。そしたら何も聞かなくていいし、疑わなくていい。ネガティブなコミュニケーションコストをゼロに出来るんですもの。

人はただ生きるのみにあらず。自分以外の誰か、何かのために力を尽くすことで社会はよくなっていくはずなのだ、と最近ほんとにおもってるのです。まる。

行きつけのカフェで勝手にコーヒーフロートが出てくるようになった

表題の通りです。

 

同じことを習慣として繰り返していくと、当然ながら次が想像出来るわけで。それは経験からパターンを学習して活かすと言うことである。

なぜカフェのお姉さん(大体土曜は同じ人)が今日になって「コーヒーフロートですね」と僕が注文する前に言うことにしたのかは定かでは無いが、ただそれでも覚えてもらっている実感を持てて悪い気はしないので、顧客ロイヤリティの向上に寄与していると思います。

 

最近、ずっとChatGPTを調べたりどう使うかを考えていて。未来の色んなことがAIで書き変わっていきそうなのを目の当たりにすると、何かを考えること自体が最近はとても楽しい。ゲームするのが楽しい時間ってまぁ、自分は暇なんだなと実感するんですけど、今はそれそらもちょっと惜しいくらいには楽しい。

最初に書いたようなパターンの学習って、自分自身の行動がデータになっていればおよそ予想はつくわけで。子どもを塾に送った帰りに寄る店だから大体同じ時間だし、そこでコーヒーフロートしかこの半年くらい頼んでないから、多分来週2月25日土曜の同じくらいの時間にこの人が来てコーヒーフロートを頼む確率は、多分80%くらいはある。そう考えるとだいぶ高いし、AIってすごい!!って思う(AI関係無いけど・・・)

 

クリエイティブとは何か、人間と機械の境界線は何か。それが大きく変わっていくのを感じるし、多分人間が想像しているようなシンプルな線の引かれ方では無いように見える。単純作業だから、とか、知識が必要な仕事だから、とかそういうことじゃないと思う。人間に残る価値とは何なのか?それを考えるのはとても面白い。とりあえずAPI試したりプロンプトいっぱい試して反応見て使う、を繰り返して試行錯誤することでもう少しその地平を見ていきたいと思います。

 

別件、ついに通ったらしい。ので、決戦は3月か4月か。自分の行く末も大きく変わりそうな気がするな。今のAIブームも無関係ではないはずだ。

 

さらに別件、友達が芸能ニュースに出ててびびった。色んなところで色んなものはつながっているものである。

 

以上、生存報告まで。まる。

これが最後の仕事になるように

気付けば、先月までと逆方向の仕事をしている。いかに辞めるかの話ではなく、いかに続けるか、続けていくのかという話。

 

やってきた仕事も、身に付けてきたスキルも、培ってきた人脈も、世の中に示すことが出来た価値も、そして目の前にある偶然も、全部使って本気で戦っている感覚に久しぶりになっている。しばらくちゃんと「仕事」してなかったなと思ってたけど、今はしてる実感がある。

 

まだ、今なら退けるし止められる、って少しは思う。もしかすると失敗するかもしれない、誰かを不幸にするかもしれない・・・ということも。でも、どうやっても死ぬわけではないし。きっと自分を含めたみんな幸せに出来る方法はこれだと自分は信じているし。失うものはそんなに無いと思えば思い切ってやれるし、結果的にこれまでそうやってしてきた事は何も間違ってはいなかったはず。

 

なぜなら。これまで自分がやって来たことが正しかったと思うために、というかそれを証明するために過去を肯定するために我々は仕事をするからである。諦めなければ負けないし、自分自身を肯定出来るのは自分自身しかいないし、それを出来ない理由は無い。ゆえに、やらない理由は何も無い。というかんじ。

 

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今週、久しぶりに英語で10時間くらいぶっ続けて考えて、話した気がする。自分でも成長したなーって思うし12年前に比べたらこれ自体ちょっと嬉しい気持ちにもなるんだけど、それ以上に嬉しいのは自分がやって来たことをすぐそばにいる誰かではなくて、地球の裏側にいる全然違う誰かが認めてくれているからかもしれない。もちろん、そこには打算も思惑も、俺に言えないこともあるのかもしれない。でも少なくとも自分がやって来たことを最大限に評価してくれてそれを世の中の礎とする方法があるのなら、それがどんな方法であれ正しいことではないか、と思う。

 

傲慢な言い方なのはわかっている。それでも自分は一定賢いと思うし、間違ったことはしてこなかったという自負がある。その前提で、やはり過去を肯定し未来につなげることが一番大切だしやりたいこと。それが生きるということだと、少し大袈裟だけど思うのである。だって後悔なんかしたくないし。どんな結果になったとしても絶対それが正しい。自分を信じて、過去の選択を全て「正しかったことにする」、それが自分望む生き方なのだとようやく少し言語化出来るようになった。

 

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どっかに同じようなこと書いてそうだな、って思ったらやっぱり書いてあった。この時からの変化で言うと、「過去の全てを受け入れる」って、この時は能動的に「受け入れよう」って思っていたのかも。でも今の気持ちは「当然受け入れている」という感じ。むしろそれは前提というか。これは自分の成長なのかもしれない。

 

だからこれからも後悔しないように、自分が思い描けた一番良いものを目指してがんばっていこうと思うのでありました。まる。

 

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よもやまdays2

お世話になってる大先輩、社長。飯田橋でお昼ご飯にお蕎麦をごちそうになってしまって、気付けば3時間も頂いてしまった。ありがたいことです。

会社の大先輩であり、今の自分の会社の取引先でもあり。海外に赴任されてる時には現地に遊びに行ったり、なんだかんだで奥さんも兄も会ったことがある、一方的に僕がメンターだと思っているような人。来週、うちの本社の社長とも会う予定があるらしく、先にお会いできたのはちょっとしてやったり感があります。

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単純に楽しかったというのもありますが。いくつか印象的だった話を書いておきます。

 

海外行くなら若いうちに行った方がいいよ。

若いって言ってももういい年ですが。。(20歳くらい歳が離れてるから、そこから見ると確かに自分はピヨピヨかもしれない。) やっぱり大企業に所属しながら行くのが今の自分にとってはベストなんだろうな、、と思う。色んな行き方があるけど現実的に個人で行くのはキツい。家族の問題もあるし、まずは生活の基盤をちゃんと作らないといけないことも考えるとそれが一番いいのでは、とのこと。ちょっとリアリティが出てきた気がする。

 

当たるものは、怪しいものだ。

この後の話にも繋がるけど、みんなが賛成するものはどうせ成功しない。最終的にうまくいくものはちゃんと誰かが反対しているものだろう、という。自分の仕事でもそれはその通りな実感がある(ある程度の成功といえるまで5-6年はかかった) 主体者としては「それでも信じてやり続けた先に見えるものがある」と言うことなんだけど、客観的に見れば批判もされて怪しいものだからこそ取り組む人も少なく、ニッチだけどトップになれる可能性を持っていると言う確率論的なことなのかもしれない。

 

誰かに期待し過ぎない。そのままでいい。誰かのおかげ。

「俺も40代前半まではそうだった」という前置き付きで。何かを熱く思い、変えていくことだけが正しいわけじゃ無いと悟ったんだよね、という。色んなことを思いながら生きていく人がいる。みんながみんな世界の平和を望んで高い志を持たないといけないわけではなく、目の前30cmが良ければいいという人たちもいるしそれでいいのでは。そして現実的にそう言う人に支えられて色んな組織や会社回っていると言う事実も考えると、あんまり怒ってもしょうがないし怒らなくてもいいやって思うようになったよね、、むしろ彼らのおかげで今があるという話。正直まだピンと来ないしこれについては反発する気持ちの方が大きいのも事実。「丸くなっちゃいましたね」、、とか失礼なことは言わなかったけど、でも本気で仰ってるので、一つの真実として受け止めたいと思った。

 

最後は任せるしか無いし、自分で選ばない方がいい。

自分の今の一番の悩み「リーダーの辞め時を考える」の話。自分がずっと責任を持ち続けるわけでもないのに、自分が最後に何かを選ぶのがそもそも違うんじゃないの?と。これは、確かになぁーーと思ったのでした。多分、自分がまだ何か出来ると思ってるし自分の勘違いでなければある程度は後のことを選ぶ権利が留保されてそうだから。だから選べるものは選びたいし、残せるものは残したいとも思っていた。でもそうではないのかもしれない。残るものは「既に残っている」し、ああしろこうしろということや、物や、戦略とかではなくて。残された人の中にある考え方だとか判断軸、経験のようなものこそが後に残るもの。最後はその仕事がちゃんと役に立つものなのであれば組織も人もちゃんと残っていくはず…だからやるべきことをやったら、その結果自体を受け入れて、後のことを何か判断することはしない方がいいのでは、と言う話。後のことは、後のことに責任を持つ人たち自身が責任を持てばいい、のはきっとそうなんだろうなと思って腑に落ちた。自分に出来るのはその人たちに何をしろと言うことではなく、彼ら自身が良いことを出来るように能力を高めて機会を与えていくと言うこと。それだけがやるべきことなのかもしれないと思ったのでありました。まる。