怒る自分の感情の自己分析

喜怒哀楽というものが人間にはありまして。自分が何に喜んで、怒って、悲しんで、楽しむのかは良く知っておきたいと思います。

何にだって喜んで楽しんでいけると良いですよね。悲しいのは多分どうやっても消えないと思うから、怒ることだけは何とかしていきたいと思いながら多少酔っぱらった頭でこれを書いてます。日記です。

怒りの源泉

なんか最近イライラしてるなーと思ったのでよくよく考えたら多分これだなというのが出てきました。自分の場合は「期待が裏切られること」に対してすごく怒りを覚えるのだなと。これは子どもの頃から変わってないような。

自分にも他人にも、無意識に何か期待しながら生きているんですよね。「自分はこのくらい出来るはずだ」「○○は、こういう風にしてほしい」とか、意識しなくても期待値というのはそこには必ずあります。そしてその期待から大きく外れれば外れるほど、なんか腹立ってくるのかなーと。

愛の反対は憎しみではなく、無関心だと

マザーテレサもそう言っています。よく聞く話です。「じゃあ愛と無関心の間に直線を引いたら憎しみはどこにあるの」という話を少し前に彼女としたことがあったんですが、その時の答えは「愛のすぐ隣」でした。(文字にするとなんて恥ずかしい話…)

かわいさ余って憎さ百倍とか、大昔からあるわけで。多分すごく近い感情だからその両者は移り変わりやすいのでしょうなぁ、という話。愛ゆえに期待し、勝手に裏切られた気になって、そして怒るというなんともまぁ自分勝手な話です。

でも、じゃあ期待しなきゃいいじゃんって思うんだけどそれは悲しいんですよね。だって期待しないってある意味最大の侮辱じゃないかと思うもん。「期待レベル0、少しでも何かプラスになればうれしい」ってそりゃ原理的に怒らずに済むものの、どんだけ信用してないんだっていう。他人から期待も信頼もされずに生きていくのは自分だったら耐えられない。それだったら怒られる方がまだ未来があって嬉しい。


でもね、やっぱり何事にも怒らずに、建設的に前向きにとらえていけるようになりたい。それにはきっと適切な「期待値調整(自分の中での)」が必要なんですね。あるいは期待が外れても怒らずに済む、強い心。うーーん、なんか難しい。

と言うわけで、久しぶりにtwitterにもfacebookにも流さずに投稿。誰の目にも止まることなく沈んでいくエントリがあってもたまにはよいなと。人に読まれないことを期待する記事、でもどこかに書いて見える形にしておきたいという気持ち。「出来るだけ誰かに読まれたくないという期待」が外れた時、また自分は怒るのだろうか。