稼ぐほど使うほどに軽くなるお金の価値(カイジ「命より重い!」お金の話 - 小暮太一)

少し前の本ですがカイジを最近読み直してる流れで読んでみました。新作も出てるみたいですね。「マネーリテラシー」と言う言葉が何度も出て来るように、お金についてのリテラシー、基本的に知っておくべき考え方の本として面白かったです。「カイジから得られる教訓」と言う流れで書いてあるのである意味カイジの解説本としてもいいかもしれません。

限界効用逓減の法則

「お金を使うほど1円の価値が軽くなる」と言う表現があってなるほどそうだなと。いくらお金を稼いでも「豊か」にならないのはこれが本質的な問題なのではなかろうか。確かに高校生の頃は通学定期の範囲外で電車に乗ることすら躊躇していたのに、今や「時間の質が…」とか良いながらグリーン車乗るとか言ってるわけですから、お金の価値は収入や日々使っているお金によって大きく変化していることは間違いありません。

限界効用逓減の法則と言うのは、同じお金をかけ続けたとしても慣れてしまってどんどん満足出来なくなっていく、と言う一般的な心理と言うか感情を表した法則の名前です。元は経済学の用語らしいですが色んなことに当てはまります。

人間の欲望ほど際限が無くてコントロールが出来ないものも無いのかも知れません。「足らんわ!まるで…!」と言うカイジの登場人物、兵藤会長の言葉にあるように、欲は多分尽きることが無く、少しでも良いものを、新しいものを、たくさん求め続ける欲が、同じものや現状で満足し続けられないことの根底にある気がします。「欲」自体が活力になって人が生きていることは間違い無いのに、それによって結局苦しみ続けると言うのはなんかもう、間抜けな気がします。これって仏教で言うところの業のようなものかも知れません。

頑張った自分へのご褒美!

本ではこういうご褒美指向こそがいつまでも満足出来ない現状を作っていると書かれてます。でもこういう言葉を見るたびに広告のキャッチコピーってほんと偉大だなと思うんですよね。広告に限らず消費者向けの企業なんていかに一般消費者からお金をもらうか(悪く言うと「搾取する」か)しか考えてないわけですから、耳障りの良い言葉と言うのは最終的には企業のためになっていると考えるべきで。別に嘘ではないにせよ適正に判断することは消費者側にリテラシーがないと、企業に負け続けるだけになりますし。毎回ご褒美あげてたら、と言うかお金を使うこと自体を目的化し正当化することは、自分の感覚を麻痺させているだけに過ぎない気がします。

結局のところマネーリテラシーとしては「ちゃんとお金の収支を(未来も含めて)考えて使う」に尽きます。そのペースで使い続けて今後の収支が合うなら(リスク含めて許容範囲で)いくら使ってもいいし、逆に余裕がないのであれば出費を抑えるか収入を増やすかしかありません。それの計算をちゃんとみんなやれるようになりましょう、と言うのは至極真っ当でみんな勉強してしかるべきことかなと思いました。

働き続ける力

自分に自信を持って、余裕を持って生きていこうと思うとこれしか無いんだろうなと僕も思ってます。使ってもまた稼げると言う自信さえあれば、いくら使ったって本当はいいはずなんですよね。それは言い換えると「自分の欲を満たせるだけのお金を、自分で稼ぐ自信がある」と言うことのはずなので。どうやったって自分は生きていけると言う自信を持てるのであれば、色んな欲の呪縛からも解放されるのかもしれません。(その状態を本当に幸せと感じられるかどうかは分かりませんけど)

じゃあどんな仕事が、働き方が、ずっと働き続けられる形なのかと言うともちろんそんなものは誰にも分からなくて。過去の世界を振り返って考えるなら、大企業で勤めることや、あるいは難しい資格職なんかは継続出来る確率は高そうな気はします。でも本当に大切なのはそういう外的に規定される要因ではなくて、周りの環境が変わっても仕事自体を見つけられるような柔軟性とか、あとはもう根性のようなものなんだろうなと思います。ダーウィンの進化論は仕事においてもきっと正しいはず。そういう意味ではカイジもきっと正しいし、しぶとく生きていける系の人間な気がします。だからカイジは現代におけるリアリティのある、現代における「ヒーロー」なのかもしれません。

「迷ったら変化を取れ」 - 本書の最終章より

カイジ「命より重い! 」お金の話

カイジ「命より重い! 」お金の話

有料の特急列車と新幹線のグリーン車の存在意義

「特急ってすごく高く割にそんなに到着時間変わらないじゃないですか。何であんなのがあるのかよくわからないんですよね。」
「そう?私は特急に乗れる時は必ず乗ることにしているの。時間は少しでも買えるなら買うべきよ。あなたにもいつか分かるわ。」

        • -

あけましておめでとうございます。僕の人生には何人か師匠と呼べるような人がいますが、その内の一人の方と15年くらい前にそういう話をしたなと言うことを思い出しながら、実家に帰るべく年末に近鉄特急に乗っておりました。

例えば実家の最寄りの近鉄大和八木駅から近鉄京都駅までは、到着時間で言うと特急(1730円)で48分、急行(860円)で61分なので13分しか変わりません。これに870円も出すのは果たしてどんな意味があるのでしょうか?

時間の質の差

結局これに尽きます。プライベートはさておき仕事にその移動時間を充てることを考えると、急行や普通列車だとPCを広げることも出来ないし書き物をすることも出来ないし、資料を広げるのも人目が憚られます。なのでせいぜい本を読むか携帯をいじるか、誰かいるなら小さい声でお喋りするとか。そんなことしか出来ない気がします。

しかし自分の目の前にPCやモノが置ける机があって、人にも見られない半個室の空間が出来るとしたら。そのままでは死んでしまう61分を、生きた48分にすることが、870円で出来ると考えるなら、これは決して高いようには思えません。むしろ時間を買えていると考えるなら圧倒的にお買い得です。

新幹線のグリーン車というもの

普段は乗らないんですが帰省の東海道新幹線の指定席を取ってなかったので、今回はやむなくグリーン車に乗ったんです。一度経験として乗ってみるのもいいかなと思ったのもありますし。そしたら年末の激混みの時期なのに空いていて、見るからにお金持ってそうな人や、どう見てもプロスポーツ選手っぽい出で立ちの人とか乗ってました。東京から関西に一番「質が高く」移動出来るのは恐らく新幹線のグリーン車か、飛行機のビジネスクラスとかでしょうから、当然と言えば当然なのかも知れません。

この場合の値段は自由席だと13720円なのに対してグリーン車だと+5150円の18870円です。時間は当然変わらず。この5150円で得られるものと言えば、混んでない空いた居心地の良い静かな空間と、妙に座り心地の良いイスや普通車よりやや広いスペース、あとは全席に備え付けられた電源でしょうか。あ、おしぼりも出て来ましたそういえば。

そして、使い分け方

別に急いで無いし友達とお喋りしながら移動するなら普通の電車でいいと思うんですよね。その場合にあえて乗るのはむしろ人生の堕落(←最近自分の中で流行しているワード)だろうと。それでも時間の単価が高い人とか、こういう社内環境を必要とする人は必ずいるだろうなぁ、と言うのは今ではよくわかります。多分飛行機でも同じだろうと思います。

と言うわけで、お金をかけてでも時間の質を上げて「生産性」を上げると言うのは、えらくなるためにはきっと必要なのだろうなぁ、と言うようなことをこの年末は思ったのでした。そして自分の日々の時間はまだまだ密度が薄いし、ぬるいなぁ、、と言うことも。まぁ、あまり気負わずに今年は気楽に行きたいと思っております。(←抱負)

今年もよろしくお願いいたします!

英語を話し始める勇気と恥の文化 ES#032

先週、昔の部署の先輩から「今度海外赴任する子がいるんだけど、まんとる君のゼロからの英語勉強法教えてあげてくれない?」と言う連絡があって、少し会ってきました。人に教えられることなんて何も無いんですが、、と思いつつ「まんとるぽっとのenglishタグが付いた30記事読んどいて下さい」と言っておきました。

最近ブログに書いてませんが、実は英会話はまだ粛々と続いていて、英語の勉強もずっとやってるし外国人の友達とも遊んでます。都合1年半かなぁ。「何も話せない」と言う壁を越えられた点だけは先輩だと思うので、そのことを書いておきます。

一にも二にも、勇気だ

根性論じゃないんですが、事実として。

  • 英語はそもそも得意じゃないし好きでもない
  • 理系の知識とか学問、技術は結構好き
  • でも人と話すこと自体は嫌いじゃない

まぁ、僕のことなんですけど。例えばずっと学生の頃から理系で生きて来てそのままそっち方面の会社に入った人とかには割と多いプロファイルのような気がしています。そういう人にとって特に伝えたいのがやはり「勇気」について。勇気があれば日常生活や、ビジネスパートナーと英語でやり取りするくらいの英語は身に付く気がします(相手とコミュニケーションする時に、仕事で必要な知識は既に持っているので。)

海外の人は勇気があるし、あんまり恥ずかしがらない

海外に行っても母国語じゃないから英語上手く無い人はいっぱいいるし、恥ずかしそうに自信無さげに喋る人はいます。でも例えば中国とか韓国の人がすごいなーと思うのは「少し間違っててもガンガン来る」と言う点です。そういうのをもっと見習うべきだなと。出来れば正しい言葉を使いたいのはみんな一緒です。でもそれに固執して「そもそも喋らない」のは本末転倒です。何も伝わらないですから。

これは一緒に仕事してるアメリカの人に言われたことですが「何も話さないよりは間違ってても話してくれた方が訂正しようもあるし、少しは分かるよね」と。そりゃそうだ!日本人の奥ゆかしさと言うか、人目を気にする性質、国民性とでも言うんでしょうか。「人と違ったこと(間違ってると思われるようなこと)すると、なんか恥ずかしい」と言う意識がある気がします。いわゆる「恥の文化」ですね。自分も中学校高校の英語の授業なんてほんとそうだったし、「間違ったこと言ったらどうしよう」「なんか(下手な)英語で喋ってるとこ友達に聞かれるのがそもそも恥ずかしい」みたいな意識がすごく強かったのを覚えてます。

そういう謎の同調圧力ってほんといらないんです。自分の子どもが出来たら多分無理にでも英語で話して恥ずかしさ克服してもらうと思います。「むしろ何も話さないことの方が恥ずかしいわ!」ってことを知って欲しい。友達に笑われたとしても、大人になって英語もろくに喋れない大人になる方がずっと恥ずかしいですから。(子どもにそのまま言っても納得しないだろうな…)

まずは30分くらいお話ししましょう

実際、今回会った彼も恥ずかしがってたものの、いざ話し始めたら全然普通に話せてました。まぁ、そんなもんですよね。きっとそういう人は後は大丈夫な気がします。

英語の勉強始めたいけど始められない、話してみることが出来ない人は、誰でもいいから捕まえて30分くらい話してみるといいんじゃないでしょうか。そしたら「英語とか言うと何か特殊な気がしてたけど、これって実はただ"話してる"だけじゃね?」って気付けると思います。日常会話するのに恥ずかしい人ってあんまりいないと思いますから。

        • -

年明けに、アメリカの真ん中から東の方に行ってきます。一度行ってみたかったからたのしみ!向こうの秋葉原みたいなスポットを見つけて向こうのオタクと仲良くなりたい…

萌える英単語もえたん

萌える英単語もえたん

まんとるぽっと英会話シリーズ!

2013年のまんとるぽっとベストエントリ大賞はこちら

読者の方からご要望頂きましたので、久々に[life]タグの記事として、今年のベストエントリ大賞発表!(自画自賛コーナーです)。全然関係無いんですけど最近毎日東南アジア料理ばっかり食べてて店員さんにも「よく飽きないですね」と言われてしまうんですが、今日の夜は久しぶりにイタリアンを食べたのです。スペイン料理、タイ料理、洋食、イタリアン。食べるだけで世界中まわれるというのはほんといい時代ですよね。ジャパンは良い国です。

ベストエントリ大賞!

今年自分で書いたブログの中で一番のお気に入りはこれ。酔っぱらって書いた割にはとても良い気付きだったんじゃないかと思います。

「どうやったら毎日楽しく、怒らずに、幸せに生きていけるか」って一生考えても良いテーマだと思ってます。怒るって言うのは楽しい状態とはかなり反対にある感情ですし。そのための自分が怒る理由をかなり明確に出来たって言うのは大げさではなく今後の幸せに大きく寄与してくれるだろうと言う意味で、今年のまんとるぽっとベストエントリ大賞を贈りたいと思います。

僕は基本的に自己責任論者ですので、前提として大体のことは「自分が悪い、自分が何とかすべき、自分がなんとか出来る」と思っています。怒ること一つとっても「○○さんがあんなことするのがわるい!」と言うのは別に楽なんですけど、それだとずっと何も変わらないしずっと怒り続ける人生が待ってると思うのですよなぁ。それをすると以下のような愚痴好きな人になってしまうと思うので。

愚痴る人は好きですか

グチって、あまり言いたくないじゃないですか。ある意味プチ怒りの状態で一人でぷんぷんしてるところそれを誰かにシェアして溜飲を下げてスッキリすると言う一連の行為、のことをを指して愚痴と言ってるんすけど、愚痴好きの人にいい人はあんまりいないと思うんですよね。愚痴をよく言う人ってある意味ただの「おこりんぼ」(←文字にするとかわいい)ですし。怒ると言うことは上の記事のように期待値調整が下手と言うことなのだろうなぁ、と。

楽しくいられるかどうか

どういう人が好きか(男女問わず)って、別に難しい話ではないのかもしれない。愚痴を言わないとか、価値観が合うとか、趣味が一緒とか、一緒にいて楽しいとか、メガネかけるとかわいいとか、そういうの。お互いに興味関心があると言うことは前提として。

お互い一緒にいて楽しく過ごせるように良い意味で気を遣い合える、でも気を遣わなくて済む、そう言う関係がいいのかもしれない。ずっと残っている人間関係って結局そう言うものなのかも。

        • -

教えてもらったモンスターズインク、大変おもしろかったです。英会話の先生もオススメだったけど、英語の練習にもとても良い気がする。このブログのテーマのような楽しい幸せな話でした。詳しい感想はまた今度。

モンスターズ・インク [DVD]

モンスターズ・インク [DVD]

ゲーマーが見つけるリアルの中のゲーム(ルールを変える思考法 - 川上量生)

ドワンゴの川上社長の本、とても面白かったです。もはや文化となりそこに宗教性すら帯びているニコニコ動画の生みの親。思ったよりずっとゲーマーで、思ったよりずっと頭が良くて、思ったよりずっとまっすぐでかっこよかった。「ゲーマー」だけど別にゲームを擁護するような話ではなくて、ゲームを例にとったビジネスについての考え方の話です。参考になるところが多過ぎてここに何を書けばいいか迷いますが、いくつか印象的だったところを書いておきます。

コンテンツとは、わかりそうで、わからないもの

最近コンテンツビジネスについて考えることが多かったのですが、「コンテンツ」と「サービス」の違いがうまく言葉に出来なくて。この表現はひとつなるほどなと思いました。この場合は「芸術」と言ってもいいのかもしれない。わかりそうで、でもわからないから何かしらもやっとした感情が人の心に湧き起って、それがコンテンツとしての価値になっていく。その感情の生まれるものこそがコンテンツであると。確かに名作と呼ばれるようなものは何かしらの感動が多くの人に伝わっているような気がします。

覚悟があるかどうかが、格好よさの尺度になる

かっこいい、と言うのは一つの価値を表現する言葉なので、人によっては他の言葉になるでしょう。覚悟と言う評価の基準はとても自分の中でしっくりきました。仕事に関して信頼出来る人、と言うのは結局のところこれなのかもしれないなあ。成功させる覚悟、責任を取る覚悟、やり切る覚悟、怒られる覚悟… 「コミットする」と言う言葉を仕事でよく使いますが、同じようなことですね。覚悟を持って仕事をしている人はやっぱりかっこいいし、そういう人と仕事がしたい。

ゲームを好きではない人が、ゲーム会社にいるべきではない

これを生粋のゲーマーの、この人が言うとまた色んな意味がありますね。自分がソーシャルゲームに感じていた違和感はこれなのかもしれない。ただの作業として達成感のみをひたすら「げーみふぃけーしょん」として追い求めさせられ続ける「げーむ」と呼ばれるものは、恐らくゲームが好きでしょうがない人には決して作ることは出来ないものなのだと思います。ゲームが好きじゃない人が作っている、でもゲームと呼ばれる何かになっている、それが自分が嫌だったことの元凶だったのかもと感じました。


ホリエモンにせよ、川上さんにせよ、それ以外の「すごく流行る」サービスを作る人達のすごさって何なんだろうか。上に書いたような「覚悟」とか、「どこまでもそれを信じている」とか、「すごく楽しんでいる」とか、そういうのなのかな。うまく言えないんだけどそういう人たちの話や書く文章は、それだけで力があって輝いて見えるのは確かで。

今日とかもそうなんですが、会社で仕事しているとたまに自分や、自分の取り組んでいる仕事がものすごく小さく思えたり、愚かに思えることがあるのですよね。そういう時って例外なく「自分の自信が揺らいでる時」で。出来ることならずっと自信を持って、そして覚悟を持って楽しみながら自分と自分の仕事を信じて生きていきたい。そういうのを体現出来ているこういう人たちの本を読むのはそれだけで活力になって意味があるなと、改めて思ったのでした。いいなー、こういう人と働きたい。

「つまり、企画を信じるのではなく、その企画をやりたいと言っている人間を信じて、一緒にやるかどうかを決めるしかないようなことなのです。」 - P.204

勇者ホリエモンが人に好かれる努力をしたら最強じゃないか(ゼロ - 堀江貴文)

たまには昔の思い出話を。僕が高専に入学したのは確か1999年のことで、インターネットバブル全盛の時でした。「IT革命」と言う言葉がテレビでも聞かれるようになって、情報工学科に入学した僕にとっては未来が妙に明るく感じたものです。「お、時代がこっちにきとるな」って感じで。学校にはWindows98PentiumIIの最新型マシンがずらっと並び、みんなで競うようにホームページを作ったりチャットをしたり、家ではみんなテレホーダイでネットゲームに片っ端からハマったり、、と言うようなオタク高専生活が、当時入学するなり始まったわけです。

僕自身、プログラミングにハマったのは高専1年目の時で、色んなプログラムを書いてみたくてしょうがなくて、でも専門書とか高くて買えないから猫でもわかるプログラミングのコードを片っ端から試したり、帰りに本屋に寄ってコードをメモって家で試す、、と言うようなことを1ヶ月くらい"没頭して"繰り返したら、簡単なゲームとか作れるようになったんですよね。実際に初めて自分でゼロからコードを書いてちゃんと動いた時、ほんと感動したことを今でも覚えてます。

そんな高専時代、ホリエモンはネット世界のヒーローで、テレビを見ると姿を見ない日は無かった気がします。よく分からない間に「時代の寵児」と言われるようになり、球団買収、テレビ局買収、選挙立候補などずっと世間の注目を集め続けていたホリエモン。一般人の自分にとってはただただ「すごいなぁ」と言う感じでしたが、それでも彼がいるおかげで自分や、あるいは自分たちがいる世界はとても明るく、未来があるように思えたことは事実です。それはこの世界の未来を切り開いて行く、まさにヒーローのような。

そしてある日ライブドア事件が起き、そのヒーローだったホリエモンは魔王の手によって封印されてしまったのでした。

        • -

あれだけ不器用(?)で敵も作り易いような物言いなのに(むしろ、だから?)、世間は常に注目を続け、逮捕後や収監後でも勇者はずっと目立った存在でした。それはひとえにホリエモン氏が圧倒的な、他に無い何かの魅力を持っているからに違いなくて。批判も賞賛も全部含めて、みんな何かをホリエモンと言う存在に、今も昔も「期待」しているのだと思います。

本に出て来る「なぜ、ネクタイを締めなかったの?」と言う田原総一郎氏の質問。比喩も含めてものすごく美しく感じます。この文脈の場合は上の世代に合わせて好かれる努力をしなかったのか、と言うような意味ですが。ホリエモン本人も「好かれる努力をしてこなかった」と書いているように、それは一つの意思だったのだと。


この本では「あのホリエモンが!」と言うようなエピソードや、今までの著作には決して出て来なかったような思いのようなものがたくさん出て来ます。ここ10年くらいのホリエモンの活躍の裏側、今までの行動や発言、書かれた文章などとリンクして、ようやくその真意が理解出来るような、そんな感じ。

少なくとも自分のような人間にとって、ホリエモンはやはりどこか憧れるところがあって。あれだけの強い意志やビジョンを持って、未来に希望を持って、下の世代に大きな「夢」を見せてくれるような存在、あれだけ夢と希望にあふれた生き方をして「はたらく」ことにここまで前向きでいる人なんて、そうそういませんから。

一番衝撃的だったのは「自分を分かってもらうこと」の努力をしなかったと本人が言っていることと、何よりそれを「反省」しているというところです。取り分け「旧い何か」に反発するような下の世代だけではなく、例えば今まで好意をあまり持たれていなかった世代や層の人に対して本人が「本気で」好かれる努力をしたとしたならば。それは今までの限定的なヒーローではなく、これからの日本のみんなのヒーローになって、誰からも憧れられるような存在になるんじゃないのかなと思います。そういうのってほんと、かっこいいなぁ。

少なくともみんなの「はたらく」ことに対する考え方くらいはホリエモンに近付いて、みんなが夢と希望を持って前向きに「はたらく」ことが出来るようになれたとしたなら。社会は絶対に今より幸せな場所になる気がします。


でも、そんな態度じゃダメなのだ。世の中の空気を変えていくには、より多くの人たちに呼びかけ、理解を求めていく必要がある。これからの僕は、この国のネガティブな「空気」を変えるため、いままで以上にガンガン働くし、情報発信にも努めていく。シンプルに考え、決断の痛みも正面から引き受けていく。そしてみんなに呼びかけたい。 - P.191

スタバとおかわりとカフェミスト

「ホットコーヒーおかわりもらえますか」
「あ。じゃあ、カフェミストでいいですか?」
「え?…あぁ!じゃあそれでお願いします。」

                  • -

この話の続編、みたいな。

スタバではレシート持っていると、おかわりのコーヒーが100円で飲めることはみなさんご存知だと思うのですが。実は+50円出すとホットコーヒーorアイスコーヒーではなく、おかわりだとカフェミストが150円で飲めるという裏ワザ(?)があります。ちなみにカフェミストって言うのはアワアワになったミルクで作ったカフェオレみたいなものです(たぶん!)

僕はスタバに行くと冬はホットコーヒー、夏はアイスコーヒーばっかり飲んでるんですけど。去年の冬頃はそう言えばホットコーヒーを1杯目に飲んで2杯目はカフェミストばっかり飲んでたなーと言うことを懐かしく思い出しました。当時の店長さんに教えてもらったんですよね、確か。

冒頭のやり取りは1年近く前に僕がずっとそれを頼んでたのを覚えていてそう声をかけてくれたみたいで。なんかイタズラっぽく言う仕草がちょっと萌えたなんかこういうあたたかい対応があるのが、スタバと他のお店って決定的に違うよなぁと思うところなのですよね。

あと、今日は久しぶりに仕事で結構キツいことがあって嫌な気持ちを抱えながら帰ったんですけど、何かを察した店員さんが「おしごとおつかれさまです!○○さん(※←本名です)」とかスリーブに書いてくれてて、ちょっと救われた気がしました。雨でお客さんがいなかったこともあって長話聞いてくれたりして。


こうやって居心地がいい場所を増やしていくのは、自分にとってのセーフティネットの構築になっていて、精神の安定を図る上ですごくプラスになっています。そしていつでもどこでも、心が乱れた時に、誰かに頼ったり何かを使ったり、どんな方法を用いてでも自分の心の落ち着きを取り戻せるのだとしたら。それは幸せな"安定した"人生のはじまりなのかもしれないですね。自分自身の周りに落ち着けるコミュニティを作っていくというのは、そういうことなのかもしれません。まる。