彼方のカナダからあなたへの手紙

拝啓 ○○様

日本はいま大型の台風で大変だそうですが、いかがお過ごしですか。私は今カナダに来ていますが、こちらはとても穏やかな天気で毎日平和に過ごしています。

仕事を全部放り出して来てしまったのがとても心苦しいものの、せっかく来たのだからと半ば開き直りながら10日間をこちらで過ごしました。東京とは住んでいる人も、言葉も、文化も、建物の年代も、そして周りの匂いも音も全く違う世界に生きていると、今までの世界とは本当に違う世界にタイムスリップしてしまったような気がしてしまいます。

最初に訪れたのはケベックシティと言うカナダの中でも歴史がある都市で、城壁に囲まれた街はさながら日本の城下町のようでした。それでも街から見える海の風景はどこかアニメやゲームの中に出て来るようで、まるで中世の海辺の街です。訪れる時に乗った大陸横断鉄道も日本の新幹線ほど速くは無く、周りの景色を見ながら三時間かけて移動すると言うのはただの移動手段ではない電車の意味を感じました。

次に訪れたのはモントリオールと言うカナダで第2の都市です。北米のパリと言われることもあるらしいこの街は歴史的な街並みや石造りの家や教会が多く、そもそもケベックシティと同じくフランス語が公用語なので、今まで何度か訪れたアメリカや中国などとは違った意味での異文化を感じることが出来ました。そういえば街にはとても公園がたくさんあって、そこには驚くほどたくさんのリスが住んでいました。日本ではかわいいイメージのあるリスですがあれだけ多くのリスが走り回っている姿はまるで……でした。怒られそうなので、これはあえて書かないでおきます。

その次に訪れたのはキャベンディッシュと言う、プリンスエドワード島にある小さな村です。有名な、赤毛のアンと言う物語の舞台になった場所です。タクシーの運転手さんに聞いたところ、14万人くらいしか人が住んでいない島なのに年間で100万人近くも観光客が訪れ、日本人も5000人くらい訪れるそうです。ただ観光地としては秋の今のシーズンを過ぎると雪が深く身動きが取れなくなるため、冬には村からは人がいなくなりみんな街に戻ってしまうそうです。この小さな村に地球の裏側にある日本から多くの人々が訪れ、その人達が村の経済活動を担っていると言う事実は、アンの物語の感動以上に感動的な事ですね。写真はこのキャベンディッシュ村で撮った写真です。

最後に訪れたのはナイアガラの滝で有名なナイアガラフォールズと、ナイアガラオンザレイクと言う街です。正直に言うと今回の旅行はプリンスエドワード島がメインだったのでナイアガラはおまけかな、くらいに思っていたのですが、ナイアガラの滝は何とも雄大でさすが世界一の滝だと素直に感動してしまいました。しかもナイアガラは想像以上に観光地化していてカジノも映画館もクラブも、ありとあらゆる種類の飲食店も揃った歓楽街で、かなりイメージとは違っていました。別の意味でイメージと違っていたのはナイアガラオンザレイクで、数々のワイナリーや歴史的な街並みは他では見る事の出来ないものだったと思います。お土産の一つはここで買ったアイスワインです。


この手紙はいまトロントの空港で帰りの飛行機を待ちながら書いています。考えてみればいつも手紙を書くのはなぜか空港が多いですね。それはきっと時間があるから、というだけではなくて、旅の終わりや始まりが、何か物事の区切りも示しているからに他ならないからだと思っています。

今まで国内も海外もそれなりの数の旅行に行って来ました。でも、そこまで自分が旅行と言うものを好きになれなかったのは、どこかしら現実の延長上にそれらがあって、世界としては今までと同じ場所にいたからだったのかもしれません。今回初めて、物理的にも、精神的にも普段生きている現実世界から遠く離れてみて分かったのは、旅行一つで今までの生活に区切りを付け、今までの世界とは違った世界を生きられる可能性があると言うことです。たったこれだけのお金でもう一度、別の人生を歩む事が出来るのだとしたら。もしかすると旅行は世界で一番安い買い物の一つかもしれないなと思ったのでした。

だからまた、みんなで色んなところに旅行に行きましょう。ではまた。

敬具

2013年10月17日 まんとる トロント・ピアソン国際空港にて

自分の復活を知りながら

この場合「禊(みそぎ)」と言う言葉が別に正しくは無いと思いますが、最近ようやく身が清まって呪いから解き放たれたような気がするのでそう書いておきます。誰にも見られることもなく沈んで行くエントリーがたまにはあって良いと。(またこのパターンです)

「気持ちの整理」とか「区切り」って不思議なもので。自分の中に閉じた話だから別に何がきっかけでもいいし、どうあったっていいんですよね。今の自分にとってはそれが時間だったり、日付だったりしたのだろうと。

        • -

先週、妙な縁を感じる友達から電話があって。「あ、これかもしれないな」と思いながらこれまでの自分を振り返って、正直に話して、自分で全部納得出来てしまったのです。

自分に足りなかったのは、嫌なことをただ直視することだったんだろうな。前回のブログとは逆になるんだけど、考えることから逃げて、それこそ「思い込んで」いるだけでは後悔することもあるのかもしれない。いや、この場合はそれを考えること自体は「まぁいいや」で済ますべきことではなかった、と言うただの判断ミスだったんだろう。それを日付に意味を持たせて直視出来るようになった、ということで。

考えてみれば過去のことなんて全て「どう捉えるか」でしか扱えないんですよね。事実は変えようがないですから。でも捉え方、意味の付け方はいくらでも変えられます。起こってしまった事実は全て今の自分の糧になっていて、これからの(たのしくてしあわせな)未来の礎になっているのだ、ということを信じられるようになった、と言うことが自分にとって、みそぎが済んだと言うことなのだと思っています。

と言う訳で、多分調子がよかった5年くらい前の自分が戻って来ました。仕事も上期末で「いそがしい」んですけど、つらくはないのですよね。めでたしめでたし。まる。

毎日鏡の前で笑顔を作れば幸せに仕事が出来るらしい

これは実感として。

ポジティブシンキング研修

そんな名前ではないですが、仕事をする上でというか生きてく上での心構え的なことについて考える、見直すような研修が少し前にありました。参加する前は「そんなこと教えられるまでもなく日々考えていますが何か(キリッ」とか思ってたんですがとても有意義で。例によって調子に乗ってました。

「幸せに楽しく生きる」ことが目標と言うかありたい日常の姿だと思っています。だからいわゆる「ポジティブシンキング」と言うのは仮に自己暗示だとしても強い力を持っていると思うのですよね。

研修で各自の「ここ最近一ヶ月のこと」をプレゼンするんですが、あえてめちゃくちゃ明るく、悩みなんか何も無いようなフリして明るく話してみたら、自分でもびっくりするくらいほんとに明るくなってくるものなんですよね。例えば今月クレジットカードが不正利用されて止められたんですが(みなさんもお気を付け下さい。。)、確かに今使えなくて不便だしそもそもなんか怖いけど、少なくとも現金被害は今のところ無いし、セキュリティ周りを考え直すキッカケにもなったので、この程度で済んで結果的に良かったと言えばほんとよかったと思うのです。

有り体な言い方をすると「ものは考えよう」っちゅうことですね。なんだって良く見ようと思えば良く見えるし、悪く見ようと思えば悪く見えるわけです。だから気持ちが落ち込んでいる時は「悪く見てる/考えてる」だけだから、それに気付いた時に無理矢理自分を動かせるような「スイッチ」を自分で持てればいつだって自分で自分を幸せに出来る気がしています。

鏡の前で笑顔を作る

明るく生きるためには、もう笑うしかなくて。でも一人だと笑えない自分を自分でどうコントロールするのか。分かり易い日常の第一歩目の行動として「朝、鏡の笑顔を作る」と言うものを試してみています。バカバカしく思えると思うんですが、ほんとバカバカしいんですよ、ほんとにもう。「え、なんでこいつ朝から無理して笑ってんの。。」と自分に対してツッコみたくなるんですが、見てるとほんとにバカバカしくていつの間にか「ぶふぉっ」ってほんとに笑ってしまいます。なかなか笑えない人はその無理な作り笑いを、笑えるまで見つめ続ければいいんじゃないでしょうか。最後には自嘲的に笑えると思います。最近毎日やってますけど、その毎日こんなことをやってる自分がまた面白くて笑ってしまうと言うそういう循環です。

この朝一から無理にでも笑うと言うのって効果的で、笑ってたらもう色んな暗いこととか「どうにかなるか」って言う気がして来るんですよねー。なんか色んな細かいことがどうでもよくなると言いますか。ようは「思い込み」ですから、自己暗示と言うかセルフマインドコントロールとでも言うべき世界なので、何したって笑えれば良いと思います。自分で自分を「きょうもたのしい!しあわせ!」と思わせることが出来れば、僕の場合はまぁ辛いことなんかあんまり無くなります。大体みんなそんなもんじゃないでしょうか。

だから最近は仕事やその他で何かがあったとしても「まぁ、でも最悪でも死なないしなぁ。。」と言うのが最近の心持ちで、とてもしあわせでおだやかな感じなのです。


しょっちゅう書いてますが僕は日々楽しく、幸せに生活して、仕事して、ゲームして生きて行きたいだけなんですよね。その上で人の役に立てたり誰かを幸せに出来たり、何か意味のあるものを世界に残すことが出来ればいいなと思いますし、それ以上でも以下でもなくて。辛くても笑うことさえ出来れば、きっと自分は不幸ではないと思い出せるので。自分は全然恵まれてるなと思うので、これからも周りに感謝しながら生きて行きたいなと…。

あんまり幸不幸について語るとうさん臭いブログになりますが、僕は決して怪しい人でない、ただのモンハンが好きなヌルオタサラリーマンですので…念のため。今後ともよろしくお願い致します。まる。

忙しい忙しいと言う前に考えたいこと ES#031

こんにちは。ブログではごぶさたしております。おかげさまで元気に生きています。最近の出来事について半月分くらいの日記をまとめて書いておきます。母がブログを見て元気かを判断しているらしいので…。なんて親孝行!感動!

…と思って色々今月を最初から思い出しながら書いてたんですが、やたら長いしなんか一つの記事にしとくのは悲しいので全部バラして書くことにしました。と言う訳でこの記事は「忙しい」についての話だけ。

アメリカへ

今月はありがたいことに(?)出張が多くて、月初めからまたU.S.にいました。自分個人の成長と言う観点で言うと徐々に言葉が分かるようになって来て、毎回行くたびに楽しくなってるなと。セミナーとか出てても「全然わからん」と言うことってあんまり無くなって来ました。でもそれと同時に自分の足りなさ、圧倒的に語彙が足りないし言いたいことの半分も伝わっていないんじゃないかと言う焦りがあります。

あと今回は初めて展示会形式で、英語でデモして説明する、と言うのをやったんです。世界中から人が来てたんですけど、多分母語によってなのかな、イントネーションが全然違って面白いんですが聞き取りづらい国はほんと聞こえない…。これって恐らく日本語でも聞き取れない地方の言葉がある、と言うことに近いのかも。逆に自分の英語も相当聞きづらいんだろうなと思った次第です。こんな自分にいつも付き合ってくれている人達、ほんとすごいな。

言葉に関して言うと仕事上は何とかかんとかなっているものの、言いたいことがちゃんと言えないのってほんと悔しいです。日本語でも「このタイミングでこれ言ったら超面白いのに!」と言う場面をみすみす逃すのって悔しいですし、今はそういう感じなのです。こう言う瞬間を無くすと言うのが今年の課題です。

ちなみに展示会でうまく商談につなげて行けるかどうか。これについては自分に足りないのは言語よりむしろビジネスセンスな気がしました…。

アジアのどこかへ

続いてはアジアへ。なんか調子乗った感じですが、最近海外に行くことにあまりwktk(わくてか)出来なくなってしまった。。何と言うかこう、日々の仕事の延長になってしまっているなと。とか何とか言って気が緩んでいるのは自覚しているので、こうビシッと、気合いを入れ直したいと思います。(←人間の決意程無意味なものも無いなぁと思っております。)

今回話をした会社の方は日本語が割と堪能で、会食なんかだと半分くらいは日本語で話してくれたんです。こちらの英語もこんな風に聞こえているのかな。それでも挨拶だけでもこちらの言葉で話してくれれば一気に距離は縮まるし、英語圏以外の勉強をするのもそう言う意味ではとても役に立つ気がしました。

あと、アジアの街の香りが好き。また仕事じゃなくゆっくり来たいなー。

「最近忙しいんすよねー」

最近の状態を簡単に表現するなら「いやー、最近出張とかで忙しかったんで日記書く時間なかったんすよねーー。」とかになっちゃうんですけど、なんかそれってすごく嫌だなぁと。そんなこと言うくらいなら、モンハンやりたかったので何も書きませんでした、とか言いたい。過去ログを見ると「忙しい」に関しては3年半程前のブログにこんなことが書いてありました。

「忙しい」と言う言葉は色々丸めて、ぼやかすための言葉に過ぎないよなぁ、ってこと。だって「忙しい」だけだと、何も事の本質を語っていないし。忙しい、と言えば言うほど嘘を付いているように感じる。「忙しい」、と言う言葉の、裏にある気持ちは何なの?何でそれを隠すの?その言葉を聴くたび、何で?と聞いてしまうのはそういう気持ち。 - まんとるの壷@捕鯨 2010年3月19日

忙しいと言うたびに違和感を感じるのはやっぱり「嘘をついている」感じがするから嫌なんですよな。状態としての「忙しい」は定義の問題なので、現実として存在すると思います。それはそれでいいんですがその「忙しい」はやっぱりどちらかと言うとマイナスの状態で、しかもかなりイケてない部類のものです。

何が嘘かって言うと、自分にとっては「いっぱいやりたいことがあるんですがうまく整理出来てなくて能力も足りてないからテンパってて時間が足りてないし気も遣えてません」=「最近忙しいっす」くらいの感じがするからです。いやいやそれ忙しいとか言う前にもっと先に言うこととかやることあるだろ、と思う訳で。

だから「なんか忙しいなー」と思ったら何がそのイケてない状態を作っているかを客観的にまず見て、何で忙しいのかを考えておきたい。そう思えば「なんか最近忙しいぞ」と思うこと自体は良いアラートになるし、悪くないと思う。事実、今月は上期末だし仕事もやることいっぱいあるんですけど悲壮感は無くて、なんか楽しいんですよね。それって別の記事に書く「ポジティブな気持ち」と「深呼吸して落ち着いて考えること」が出来ているからなんじゃないのかな。仕事の状況は今も半年前も、一年前もそんなに変わってないと思うから。

別に他の人が忙しいと言う分には別にいいんですが、自分は心を亡くして生きたくはないなぁ、と思いながら生きております。と言う訳で、最近モンハン4をやるのに忙しい状態からお送りしました。あー、忙しいわーモンハン忙しいわー。(←楽しい)

モンスターハンター4 - 3DS

モンスターハンター4 - 3DS

人間は自分が好きなことしか出来ない

好きこそものの上手なれ

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉が好きです。何か上達しようと思ったらその一番早い方法は、好きになることだと思うのですよね。趣味も、勉強も、仕事も、人間関係ですらも。いい感じでうまく行くときはほぼ例外なく「好き」なのだろうと思います。

例えば一日に何をしているかを行動レベルで、数分レベルで自分が何をしているか書き出していったとしたら、みなさんは果たしてどんなリストが出来るのでしょうか。

恐らく、大体の人は好きでやりたいことをやっているか、あるいは「楽」だからやっていることがほとんどだと思います。「楽」と言うのは若干ネガティブですが、マイナスではない、どちらかと言うと「好き」よりの弱い感情、と言ったところでしょうね。テレビを見るのも、スマホでゲームをするのも、なんとなく街をうろうろするのもネットサーフィンするのも、すごく強い「好き」じゃなくてもある程度「楽」なもので人は時間を満たしている。食べるのも寝るのも、積極的に好きではなかったとしてもそれに逆らうのは「苦」なので、それを回避する「楽」な方法として自分の生物的な欲求に従っている。そう思います。

だからこそ色んなものに興味を持って、好きでいられるのであれば。自分の時間を満たす色んな事柄に対して「好き」でいられるのであれば、それはきっと自分の人生をもっと有意義なものにしていくことが出来る…。自己啓発本に書いてあるようなことは、得てしてそういう類の話です。

「好き」と「上手」の順序

これは例え話ですが、それほど好きでも無い彼女/彼氏と付き合ったとして。嫌いなわけではないけど、何が何でも一生ずっとにいたいという程ではない、と言うレベルのお付き合いだとして、その調子で一生ずっとやっていけるかと言うと多分持たない気がします。すぐに他の「好き」に取って代わられるような感情は多分、脆い。文字にすると恥ずかしい感じだけど、だからこそ逆にうまく行きそうな流れが来たのであれば、それは結構好きになることが出来たということなのかもしれない。

「好き」が先なのか「上手」が先なのか、ことわざは教えてはくれていません。でも例えば彼女の気持ちをいきなり理解出来るようになるとか、めっちゃ速くボールを投げるとか、すごい音色を奏でられるとかそう言う「上手になる」ことは多分難しいので、現実的に考えれば自分のポジティブな感情に従ってそれを増幅させて「好き」でいることがまずは最初の一歩目なのではないかと思います。そしてその「好きになるプロセスを作ること」自体を自分自身が好きでいられるようになれれば、きっとその人は好循環で回っていくし成長していけるのでしょうね。子どもの頃からそれが出来ていると、すごく幸せに生きていけると思います。

「好き」と「楽」

「好き」と「楽」は同じ方向だけど、エネルギーが全然違います。楽なものは往々にして受動的なもの、習慣化したもの、そういうものに多いような。楽なものだけでも時間は全て埋まるしそれほど苦痛ではない。エネルギーが無いときはそういう生活になります。

珍しい友達から電話がかかってきて色々と思い出すような話をしたら、やっぱり自分は疲れて楽な道に逃げまくっているんだろうなぁ、と思ったのです。だってここ半年くらいで何か力を使って決断したことなんて、多分一つも無いですもん。仕事の選び方もプライベートの時間の使い方も、全て楽なことに逃げているんだろうな。自分が辛いのは過去への折り合いの付け方ではなく、恐らく未来に目を向けて真剣に考えること、だと思います。

自分をpoeticに語るという楽な遊びに飽きて、他のちゃんとした何か(誰か?)を好きになれたら、きっと全ては解決するんでしょう。今日色んなことを思い出しながら最近の生活を振り返っていると、どうやら既にかなり飽きて来ている自分に気付いた。新しく好きになるものと言うのはFF14でもモンハン4でもないのですよ。自分が一番、よくわかってる。

明日からまた1週間出張です。大きなシャチかライオンかパンダのぬいぐるみでも買って来たら、元気出るかも知れないな。

一日中ゲームをやりまくった結果、僕はニートにはなれないと思った

夏休みの反省文と言うか気付いたこと。お盆だし。休みだし。最近パーッと遊んでないなー、仕事辞めたりして開放されたら一日中ずっとゲームして遊べて幸せになれるんじゃないか、とか急に思いまして、お盆に一日、本当にAM9:00からAM2:00までPSPで13時間ぶっ通しで久しぶりにゲームをしました。その結果思ったこと。

1日に13時間ゲームするとはどういうことか

今日はタクティクスオウガ運命の輪の、ロウルートをクリアするんや!ゲームの内容はまぁ、別記するとして。実家に帰るのにPSPもってかえろーと思って棚を見てたらタクティクスオウガを発見したので、前からやりたくてやってなかったルートでクリアすることにしました。超好きなんですこのゲーム。

昼も夜も食べず。家から出ず。冷蔵庫にペットボトルの2リットルのお茶があったのでそれだけ頂きました。翌日に体重計に乗ったら2キロ減ってました(本当に何も食べてないと減るものですね)。おかげで相当攻略ははかどりました。13時間ですから。1章から4章まで進みました。

募る罪悪感

ゲームと言うのは、基本的には単純作業で、そして苦痛ではないものだと思います。それなりに爽快感があって、なんか楽しくて。ゲーマーを自認する僕ですが、ゲームは基本的には非生産的だと言うことは自分が一番よくわかっています。

これは以前書いた社畜の話と実は似ている気がします。(仕事は何かしら世の中の役に立っているので、そういう意味でとても生産的だと言えると思います。)

それなりに、いやかなり好きなことだから。目の前にたくさんあるから。ハードルが低いから。ついつい続けてしまえるから。理由はそんなものな気がします。それはソーシャルゲームでもパチンコでも別に変わりません。もっと言うと大体の趣味に当てはまるようなことだと思います。

でも、趣味と言うのは基本的には非生産的なことが多くて。自分の場合の罪悪感は「こればっかり続けてたら、多分何も残らないし、続けられないし、多分しぬ。」と言う自責の念の形で襲って来ます。趣味でお金が稼げるならまだしも、ゲームばっかりやってたところでお金は入って来ませんから。

好きなことしかできないけれど、好きなことだけでは生きていけないことが多い気がした

人間は好きなことしか出来ない生き物だと思います。でも好きなことだけ、ゲームだけして、インターネットだけして、アニメだけ見て、そういうステレオタイプニートと言うか引きこもりにはどうしても先が無いから、別のことをしないと継続して生きていけません。何かしらお金を稼げるように。地球はそういう場所ですから。


罪悪感を覚えるのは、このままじゃヤバイと本能的に思えるからかもしれない。罪悪感と言うかそれはもはや恐怖です。「あ、このままじゃ生きていけない」と。家にずっといて非生産的なことをするのは恐怖だから、これはマズローの欲求5段階で言うとかなり低いところのレベルでの欲求として、嫌なんだと思います。

「つらいことがあるから楽しいことがあるんだ」「週末を楽しむために平日の仕事はつらいのだ」みたいな言い方をされるのは、やっぱり受け入れがたいのですが。それでも一つの真理だなと思えるのは、辛かろうが苦しかろうが、生きるための努力(どこから自分が生きてくためのお金が入って来るか)について考えることと努力を捨てた時点でどうしようも無くなるし、それは本能的に回避されてしかるべきだと言うことです。

「自分、今日から狩りも採集もしません!誰も欲しがらないと思うけど、海岸で貝殻拾って集めることしかしません!」とか言うと、そりゃもう古代でも現代でも生きてはいけないよなと思います。

結局はバランス、なんでしょうね。なにか一つだけではなくて、本当に好きな非生産的なことも、お金を稼ぐことも全部満たしてこそ幸せに生きていくことが出来る。そう考えれば今の社会の在り方と言うのはそうおかしいものでもない気がしたのでした。だから「ゲームは1日1時間」と言うのは至言なのだと思います。まる。

タクティクスオウガ 運命の輪(特典なし) - PSP

タクティクスオウガ 運命の輪(特典なし) - PSP

田舎の時間の流れ方(お墓参りオペレーション その2)

ここ半年くらい何度も奈良の実家に帰って来ているんですが、その度にゆっくりとした時間の流れを感じてそれがすごく心地よくて自分でも驚いています。家の庭とかめちゃくちゃ緑が生い茂っていて、だからか虫もいっぱいるし緑の香りもすごいです。こんなもの(とか言うと母が怒りそうですが)が素晴らしいと思えるなんて、十数年前にこの家に住んでいた時は思いもよりませんでした。ちなみに見れば分かりますが写真は奈良のそれではありません。

お墓参りオペレーション その2

お盆だし、親戚と一緒にお墓参りに行きました。もう何度繰り返したのか分からないですよね。このお墓にお参りして手を合わせて何かを祈ること。

従姉妹のおねーちゃんと還暦を過ぎたおじさんおばさん達の会話を眺めながら「なんでこんなに話すこと尽きないんだろうね」と話してたんですが、恐らく30年後には自分達もこうやって話しているのだろうなぁ、と言うことをおねーちゃんもきっと何となく感じていたと思います。

お墓参りについては去年も書きました。

いま改めて考えると、お墓に参るのも親戚で集まって雑談するのも大した「意味」なんて別に無いと思うんですよね。あるとすれば「そうしたいから、そうする」と言うだけで。ほんとにただそれだけなんですよ。家族揃ってご飯を食べるのも、日がな一日どうでもいいようなことを話すのも、意味とか言わず、ただそうしたいからそうしているだけなんだと思います。それはある意味で贅沢な時間の使い方なんだけど、ここにいる限り別に贅沢でも特別でも何でも無いのです。

イオンと言う、街

ご多分に漏れず、うちの実家の近くにもイオンの大きなショッピングモールがあります。10年くらい前に出来たと思うんですが、自分が通っていた通学路とか近くの建物とかがばっさり取り壊されてこれが出来たのは記憶に新しい。こういうショッピングモールの存在が良いか悪いかは人によって捉え方が違うでしょうが、これによって地域の人の生活は物質的に豊かになったし、大量の雇用が生まれたのも目にしているから僕から見るとさほど悪いことのようには思えません。

実家の友達と話していて思うのは、こういうモールの存在は東京や大阪における「街」の概念とあまり違いが無いと言うことです。レストランも、喫茶店も、服を買うところも、映画を見るところも、CDやおもちゃを買うところも、おしゃれな雑貨を買える店も、、何もかもこの中には揃っていて。東京に住んでいて「渋谷か新宿に出かけよう」と思うことと、この土地における「イオンに行こう」と言うのは何も変わらない概念なんだろうなと思います。だからダイヤモンドシティと言う名前は本当に「シティ」なのだと。

電車30分の移動距離で何もかもが手に入ってしまう世界だけが、世界の全てでは無いのですよね。

時間の流れ方の違い

いつから、全ての物事に意味が無いといけないと錯覚していたんだろう。別に目的無く生きたって、色んなものに囲まれて生きなくたって、競うように何かを手に入れなくったって別に構わないんですよね。本当はもっとのんびりと暮らして生きたって別にいいはずなのに。都会、とりわけ東京で生活していると人の密集度もすごいし、みんな忙しく「何か意味を求めて」生きている気がします。会社だって友達だって、地域の生活だってそういう感じがします。

ひとところにずっと住み続けると言うことには、自分の世界を固定化する作用があるのでしょう。時間の流れはこんなにもゆっくりにもなり得るし、忙しく何かに追われるように生きることも出来る。自分にとって何が一番豊かなのかはまだちょっと分かりません。でも日々の生活のことを重く考え過ぎたり、仕事に対して責任を持ち過ぎたり、「何かをしなきゃいけない」と思うことはきっと精神上よくないと思うし、そんな必要なんてどこにも無いのですよね。

世界をどう捉えて見つめるかは人次第です。その見方がみんな違うから、人の数だけ世界は存在していて、同じ世界であってもある人にとっては幸せで、別の人にとっては不幸せになり得ます。そんなことはみんな分かっているはずです。全然違った世界の在り方を見て、客観的に自分を見直して、より良い選択をしていくことが出来るのであれば。それだけでも自分にとっての 田舎 の存在は貴重だしそこにこそ意味が見出せるなと、だらだら過ごしながら思ったのでありました。

以上、世界のはざま、奈良の地方都市からお送りしました。