5年後も変わらない日々が続くとしたら

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「5年後も変わらない日々が続くとしたら、それは楽しいんですかね。」

10年前の上司の上司に、色んな巡り合わせがあってお会いしました。その人自身は9年前に別の会社に移られたのですが、ちょっと風変わりと言うとあれですがとても、すごい方です。本質的なことしか言わないけれど知的でアメリカンジョークも言えて、あと優しい。この10年の間にも何度かお会いする機会はあったものの、まさかまたこうやって一緒に仕事が出来るようになろうとは、何とも偶然なお話です。

上の言葉は昨日言われたことなんですが、久しぶりにすごく考え込んでしまった。この2年で立場が変わってだいぶ保守的になったと自分でも思っています。会社はとても安定したし、ある領域では良いポジションに居続けられるだろうし年間xx%くらいの成長は見込める、、みたいなことは言えるようになりました。業績を維持して安定させて人を増やして自分で無くても仕事が動く状態にして、、会社の運営としては及第点だと自分では思う。思うんだけど、心の底から楽しかったかと言えばそうではない、ということもわかっていて。楽しいことはちゃんとあるんですけどね。やったことないこともやれたし。国の中枢の人に意見出来るようになったり、業界自体を広げられている実感もあるし、メディアに出たり本に載ったり、自分の力で人や会社を動かせている実感は持てるようになってきた。

でもそれってどれだけのチャレンジ、だったんだろうかと思う。やる前からそのくらいは出来るだろうなって、思ってはいなかったか。多分思っていた。当然、出来ると思って何でもやるんだけど、勝ちがわかっている勝負をして果たして楽しいのか。その程度のことで本当に良かったのか、そう考えるとまだもっと出来たんじゃないかと今更ながら思ってしまう。

5年後も変わらない日々が続くとしたら。家庭については今も平和だし5年後も変わらず平和であって欲しいけど、仕事についてはどうだろう。もし本当に変わらない想像の範囲を超えないものばかりだとしたら、それは果たして生きていると言えるのだろうか。現在の延長線上にある想像できる世界に生きたいとはどうしても思えないよなぁ、、と。自分にとって無謀に思えるようなことへの挑戦をすることだけがそのための方法なんだろうなと思う。ようやく少し生き返ったような感覚が自分の中にある。それを忘れずにもっと望んでいこう、と思うのでありました。まる。

 

世のため人のために仕事をする

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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!

 

さて、ありがたいことに、異動を希望してくれる人が多くてこの1-2ヶ月は本当にたくさんの面接をさせて頂きました。未知の人にたくさん会えると言う意味で面接シーズンというのは本当に楽しい。

 

面接の中の話なんですが、色々これまでの仕事について聞くじゃ無いですか。でも別に過去の事実とか実績それ自体を知りたいわけではなくて。そのことから何をどう考え、次の仕事にどう対応していくことが出来るのかを知りたいし想像したくて色んな質問をするわけです。個人的に一番知りたいのはその人自身の仕事のモチベーションの源泉と、そして何のために仕事をしているのか。

 

仕事がうまくいく良いパターンの1つは、自分のモチベーションの方向(やりたいこと)と会社としてやって欲しいことが一致している、というものではないでしょうか。自分がやりたいことっていくらでも自発的にやれるし、好きだから色々考えるし工夫もするし自然に頑張る、すると結果的に良い成果も出るものです。それが仕事としてやって欲しいことならもう何も言うことは無い、という話です。出来るだけそうなるようにするのが良いマネジメントだと思ってますが、そうなるように自分と仕事をコントロール出来ている人は、周囲の環境によらず仕事が出来る気がします。

 

一方でうまくいかないパターンで典型的なのは、モチベーションも仕事の目的も「自分自身にしか向いていない」というパターンだと思っています。"しか"というのがとても大事で。究極的に人間と言うものは利己的であると僕は思っていますが、とはいえ自分のこと"しか"考えないと言うのはあまりに自己中心的だし周りも不幸にするし邪悪です。そりゃ利己的であっても仕事は自分のためにはなるのでしょうが、周りのためにもお客さんのためにも会社のためにもならない仕事なら誰も応援出来るはずもなくて、最終的には孤立してしまう。それならまだ漠然としてても「世界平和のために頑張ります」って言ってくれた方が100倍良いなと思うんですよね。

 

信頼できるとか、思いやりがあるとか、良い人だとか、前向きだとか。どう言ったって良いんですけど。周囲の人やお客さん、誰か自分以外のことを真剣に考えて仕事をする、生きるというのは社会における仕事人としてのモラルな気がします。自分で狩猟も農耕もせずにご飯を食べられているのはその社会のおかげなわけですし。ということを書いてると8年前に書いたブログの記事を思い出した。文脈は全然違うけど言ってることは今も間違ってない気がします。気付けば中学生の子どもも5歳の子どももいる今の自分ですが、やはりそういうことを教えたいなと思い日々接しています。

地球は元々、狩りも採集もせずに生きていける場所ではないと思う - まんとるぽっと

 

話が逸れました。面接を通して仕事に対する色んな考え方を見て、やはり世のため人のためというのが大事ですよねと思いました、という話!社会のためになることをしながらこれからも生きていきたいものだし、そういう人と一緒に仕事をしながら生きていきたいですね。まる。

リーダーの辞め時を考える

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長くやり続けると仕事でも何でも習熟度が上がって必然的に上手くできるようになります。大体のことはそうなんじゃないでしょうか。行きがかり上、何かのリーダーのようなものをやることが多いんですがそのやめ時をどうやって決めるか。というかどうやって実際にやめるのか。

 

目に見えない経験値というものがあります。仮にそれを、いろんな問題や出来事があったときにより良く対処出来る能力値、だとすると。時間を経れば経験が増えて知ってることが増えるので「当てはめ」がたやすくなります。経験値が貯まるということは対処出来るパターンがどんどん増えていくことで、知らないパターンが減っていき限りなく早くそして正しく「対処」できるようになるということでしょう。

 

一方で、その能力値の限界をゲームに置き換えるとレベルの上限のようなイメージなのですが。これって文字通り「経験値が増えない」、つまり対処出来るパターンが増えないあるいは対処すべきパターンが増えない、という状態が実際には当てはまるのかなと思います。この増えない、という状態は別に悪いことでも無くて。起きる出来事って割と類型化出来るものなので「あの時のこのパターンと近いなー」と思ったら多少調整すれば知ってるパターンで対処出来ることも多く。レベル上限になってても出来ることは十分あるということだしむしろそれでいいという考え方もあると思います。

 

ただし、レベル上限にはいろんな弊害がある。これは仕事でもゲームでもそうだと思いますが成長実感できないとどうしても飽きる。完全に同じことの繰り返しで変化がなくなると組織の前に自分自身がつらい。だから辞め時というものは必ずあるはずだし、意図して迎えるべきだと思うのですよね。自分がリーダーを続けるのであれば、組織を大きくしたり違った目的を設定し続け常に自分も組織も変わり続ける覚悟を持って取り組むべきだと思います。そうでなければそれが出来る誰かに引き継ぎ変化を起こし続けるべき。

 

このこと自体、一つの価値観だとは思います。組織でリーダー自身の経験値がほぼ上限になったことを知りつつその組織で生きることを良しとするのか、という。僕自身は経験値が上がらなくなったら、経験値が貯まる文字通り別の職業を探したいと思いますし、その方が組織にとっても残るメンバーにとっても良くなるだろうなと思います。変わり続けて少しずつでもレベルアップして生きていきたい、つまりレベル上げが好きというのが人生というゲームをプレイする上ではやはり根底にある思いなのかなと自分で思いました。まる。

 

本当にやりたいことを探して

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そんなものはない、のかもしれない。

 

仕事において、もしサラリーマンとして順調に出世もし、満足できるお給料も頂けて、会社の居心地は良くて、働く時間が無駄に長いわけでも無く、自由があり仕事を選ぶことが出来、そして地位も名声もあるとしたら。いったい何の不満があるというのだろうか。

 

「本当にやりたいことが見つからないんです。」

 

これは会社の同僚からも、友人からも聞くような言葉であり、今更自分に当てはめて考えるものでも無いような気がしていた。他人事として聞けばそれはただの無いものねだりにも聞こえるし、隣の芝生は青いんだよとも思うし、ただ足ることを知れ、とすら思うこともある。でも自分に当てはめて考えてみると果たしてどうなんだろう。今の自分に満足しているのか?本当に幸せなのか?今やっていることは「本当にやりたいこと」なんだろうか?

 

人はとても欲深い生き物であり、自分もその端くれであるわけで。お金があっても、家族があっても、時間があっても、何か足りない"ような"気がしてくる。自分がいま楽しいと思ってやっていること、時間を使っていることって何だろうか。それを書き出してみることで自分の「本当にやりたいこと」を探してみたい。

 

子どもの成長を見る

これは本当に幸せなことで。3人の子どもは年齢も少しずつ離れ、それぞれの成長過程にあり、日々面白い。一番下はただただ無邪気でかわいいし、真ん中は少し臆病なところもありどこか自分に似ていて面白くかわいいし、一番上はもはや趣味を同じくする友人のような感覚ですらありかわいい。出来るならもっと時間を掛けて彼ら彼女らの幸せとは何であるかを考えたいところ。

 

ただただゲームをすること

今やってる大航海時代6もそうだし、信長の野望もそうだし、League of Legendsもそうなんですけど、結構やり始めると長くて何年でも同じゲームやってる気がします。さすがにキャンディークラッシュはレベル3000に到達してキリが良いのでとめた。何か集めたりするのがやっぱ好きで、大昔にはまったLineage(初代。テレホーダイでめちゃくちゃやってた…)とかネトゲなんかやり始めるともはや止まらん気がしてます。未だに。でも楽しいんですよねゲーム。ほんとは寝ずにずっとやってたい(←子ども)

game.uw-vi.com

 

jp.leagueoflegends.com

 

ピアノを弾くこと

最近楽しくてはまってるんですけど。子どものがピアノを習うのに合わせて家に電子ピアノを買って、結局子どもじゃなくて自分がずっと弾いてるという。家にピアノが来てちょうど半年くらいですが、ほぼ毎日欠かさず弾いていて、一日20分は練習してるような。これも義務的にやってるわけじゃなくて、ちょっとずつ弾けるようになるのが楽しくて、同じ曲をひたすら練習するのが、なんか性に合ってるというか。10曲くらい並行して練習してるんですが一番弾けるようになったのがパッヘルベルのカノンで、半年も弾いてると素人でもちょっとずつ様になってくるもんだなーと思います。

www.youtube.com

 

お金を稼ぐこと

別に車も時計も服も、何に使いたいとも全然思わないんだけど。お金に関して言うとただただ新作のゲームやマンガが出たときに躊躇なく買えるようになりたい、と子どもの頃から思っていたし、それで言うともはやこれ以上はいらないはずなんだけど。いま一番はまってるゲームが上に書いた「大航海時代6」なんですが、何をするかって言うとひたすら港で物を買って他の港で売って、を繰り返して「お金を稼ぐ」ゲームなんですが、これがただただ好き。多分お金って自分にとってわかりやすいパラメータの一つであり、少しずつ増えていくのがおもしろい、そういう感覚なのかもしれない。

 

仕事をすること(サラリーマンの方)

本業はサラリーマンで社長をやってるわけですが、さすがに10年近くやってると楽しいというか何というか「ゼロから作ってきた」という感覚がすごくあって。おかげさまでビジネスとしてはある程度成功していると言えると思う。楽しくないかと言われれば、自由度が高くて何やってもいい、というのがオープンワールド系のゲームにとても似ていて。多分社長ってそういうものなのかもしれない。目的のあるRPGではたぶんなくて。どういうゴールを設定してもいいわけだし、設定しなくてもいい。ゼルダの伝説のBreath of the Wildあるじゃないですか。あれも数百時間やりましたけど、大半はほこら探したりストーリー攻略というよりは、ただ「生きてる」わけで。社長を半年やってみて思うのはそういう感覚です。

 

仕事をすること(一人社長の方)

もう1個の仕事、一人会社で社長やってる方もかれこれ数年間やってますが。こちらはなんでやってるかで言うと、好きなものに関わることを仕事にしたい、という気持ちと、もう一つ大きいのは「自分の手でお金を頂く感覚を持っていたい」ということかもしれない。やっぱりね、自分の手で仕事をして、その対価を頂く喜びって何物にも代えがたい。大げさだけど、生きてるなという感覚がここにはある。

 

そして本当にやりたいこと

ここまで書いていて分かったんですが、結局自分がやってることはだいたい、本当にやりたいことなんだろうなと言うこと。上に書いたの、全部好きだし。「本当に…」とか思うからよくわかんなくなるだけで、ただ「自分がやってることは本当にやりたいことなんだ」と思えばそれでいいのでは、と思います。

 

「やりたいことをやる」という、当たり前のただそれだけでいいのではと。年取って来るとどんどん考え方も行動も固定化されちゃって、新しいことやるのがおっくうになってくるじゃないですか。なってると思うんですよ自分も。「やったことない初めてのことやりたい!」「行ったことないところに行きたい!」って昔はあんなに思ってたのに、今は思えていない。でもやりたくないかと言えば、ほんとはやりたいんですよね。日本100名城巡り、まだ30個くらいしか終わってないし… 仕事の時間で出張行って、合間にスタンプ押してきたって本当はいいのにね。

 

それが、老いということなのかもな… といま思いました。やりたいことを忘れる、パターン化してしまう、意欲を失ってしまう、、というようなこと。それが老いることだとしたら、つまりは何かに対するモチベーション、興味?それ自体を失ってしまうことこそが老いであり、人生の敵なのではないか、とすら思う。というわけで、やりたいことを忘れず、怠惰になるのではなく、ただエネルギーを持って何かに向かっていく。それがあればきっと時間はすべて「本当にやりたいことになる」ということで、明日からも頑張っていきたいと思います。まる。

社長になってみて変わったこと

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気付けばまた春になりました。このブログを自分ではてなダイアリーから移行し忘れていて、気付けば勝手にhatenaさんが移行してくれていた。見た目そのままだし写真もそのまま。いい仕事です。この写真は高田馬場にある戸山公園という公園の一角なのですが、これを見ると未だに色んなことを思い出します。

社長になってしまった

気付けば36歳になっていて、子供も今年12歳・4歳・2歳です。遠いところに来てしまったなぁという感覚があります。そして前から自分しかいない会社の社長ではあるんですが、春から人が両手じゃ数えきれないくらいいる会社の社長にもなってしまいました。光栄なことです。

でも前から社長みたいに振る舞ってきたし(すみません)自分の中での明確な変化は思ったほど無いことに驚きと、あと申し訳なさを感じています。でも見られ方は大きく変わった気がします。ありがたいことにこれまでよりも丁重に扱って頂ける気がしますし、気を遣ってか仕事が飛んでくることが少なくなりました。なので思ったより時間があって色々と考える時間が出来ています。

 

責任とは何か

「社長になったんですよ」と言うと「大変ですね」とか「責任が重いですね」と言って頂けることも多いんですが、責任が重いとは何なのでしょう。何が大変なのか。

辞書で引くと

 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」
 法律上の不利益または制裁を負わされること。

と書いてありました。大辞泉より。

これは社長になる前にも上司に問われたことなのですが。結局覚悟なのである、と。すごくなるほどな、と思ったし今も思っています。 最近仕事の中でも「覚悟」という言葉をよく使ってしまって、あんまりよくないなと思ってるんですけど。でも責任を持つとは何なのかと言うと「覚悟する」とほぼ同義な気がするんですよね。「xxxに責任を持ちます」ということは「xxxについて何が起きても(逃げずに何とかする)覚悟をしています」ということなんだろうなと思います。

色んな良いことも悪いことも、会社という世界の中では毎日起きています。その中で何が起ころうとも最終的には自分の積み重ねの結果であるし、何とかしなきゃいけないなら何とかするんですよね。覚悟してるいるから。精神論っぽいんですが、まぁ半分くらいは精神論なんですけど、でもそれを精神論で終わらせないように何とかするための準備もするし努力もするし、がんばる。それが責任を持つ、覚悟するということの一つの形なんだろうなと思っています。

 

大事にすべきもの

これは前の社長に言われたことですが、本当に変わったね、と。人との関わり方が。「会社は誰のために存在するのか」と言えば色んな答えがあって。株主のためなのか、お客さんのためなのか、社会のためなのか。今の自分の答えは「そこで働いている人たちのため」なんですよね。これは一つの真理だと思うんですけど、自分自身が幸せでない人達に、誰かを幸せにすることなんて出来ないだろうと。だからまずは働いている人たちが幸せを感じられるような環境や、仕事や、制度や、仕組みなんかをちゃんとして余裕を持たせてあげたい。そうすればみんな勝手に、お客さんも社会も喜ばせたい、と思えると思うんですよね。

きっと仕事を始めた頃の10年前の自分ではそんなこと思えなかった。誰かのためとか言うとだいぶおこがましいんだけど、立場もあって権限もあって、そして自分自身がそれを出来る余裕を少しは持って、働く人たちの幸せを考えていくことがまずは社長の第一歩だと思いながら一歩ずつ頑張っていきたいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。まる。 

今の自分の礎になっているもの(お墓参りオペレーション その4)


先日、これまでお世話になった伯父が亡くなった。一見元気そうだけど治療中の病もあったため、ついにという感じはしたが、さすがに色んなことを考えてしまう。

奈良の伯父

自分が忘れないように、改めて書いておくんですけど。「奈良のおっちゃん」としてうちの兄弟に親しまれたこの伯父は父の兄で、早くして亡くした父の代わり、というわけではないが昔から色々と良くしてくれていた。映画とカメラと競馬と、あと昔は麻雀やゲームがとても好きで。この人の家に行くとゲーム機がいっぱい置いてあって、小・中学生の頃、何度も遠くまでわざわざ遊びに行ったのを覚えている。セガサターンをこの家でやって、その時に見た真・女神転生が本当に面白いなと思い、その年のクリスマスは我が家はプレイステーションではなくセガサターンクリスマスナイツ付きの限定版)を買ってもらったのであった。そして戦前生まれなのに新しいもの好きで、PC-98の頃から家にPCを持っていてMSXとかのゲームが山ほどあった。おっちゃんが横で寝ている中、片っ端からゲームを試し。そして買い替えのタイミングでもらった当時Windows 3.1のPCを我が家にもらってきて(確かHDDが640MBとかだった気が…)、それが縁で自分はPCを触ることになったのであった。一緒にもらった大航海時代の英語版(Uncharted Waters : New Horizons)を、当時中学1年生だった自分はひたすら英語の辞書を片手に読み解き、そして何とかクリアしたのである。今考えるとそれが自分とPCの原点だし「ゲームって楽しい」と思えた原体験でもあったのだと思います。

変わる関係性

上のが小中学校期とすると、中高生の頃。年に1回か2回、お盆や正月に親戚で集まっては麻雀大会をやるのが恒例だった。高校1年で父が亡くなったことをいま考えてみると、この伯父と、あと従兄弟はある意味一緒に集まるための理由を作ってくれていたのかもしれない。麻雀は誰が強いというわけでもなく、ただただ何時間も伯父と、従兄弟と、そして三兄弟が入れ替わりで打つわけなんだけども。いつも丁寧にメモ用紙に成績表を作っては書き留めて、というのを数年分積み重ね。大学生になってからはあまり集まらなくなってしまったけど、きっと従兄弟の家の麻雀セットにはまだ過去のメモ用紙が残っているはずだ。それは当時の記憶を紐解く数少ないきっかけ。その後自分も大人になり、結婚し、些細なすれ違いから数年間疎遠になった。今思えば自分がもっと早く謝ればよかったのに、とは思うものの。2年ほど前に改めて会って謝って、その際は自分にも子供がいて伯父にも孫がいて、伯父も立派なおじいちゃんになっていて孫の写真ばかりを撮っているのを自慢してくれたことを覚えている。

自分の礎になるもの

今年35歳になったんですけどね。自分の仕事はどう見たって「IT関係」でPCは手放せないし、自分の数少ない趣味はほぼゲーム専用のPCを買ってゲームすることだし、これって20年前にPCをもらったからこうなったことは間違いない。そして先日大航海時代4のパワーアップキット買ったし(面白いです。Windows10でも動いた)。スマホで今度出る大航海時代4も楽しみにしてるし…まさに。

子どもの成長を見ていると思う。環境で人はどう育つかが、間違いなく変わる。親の教育水準と子どもの将来年収は明らかな相関が、とか今日のTVでもやってたけど、それもそう。周りにPCがあればPC触るし、マンガがあればマンガ読むし、ボールとグローブがあればキャッチボールするんでしょう。自分の場合はこの伯父がいたから今の仕事をしてるんだと思うし、自分は幸せに生きられていると思う。父と同じように、この父の兄にも感謝してこれから生きていくのだろう。お墓参りのたびに父の墓の横に伯父を、これまで以上に思い出すことになるだろう。自分を今の自分にしてくれて、本当にありがとう。R.I.P.

2018年8月14日の日記

どうでもいいですが、このMacbook現役です。(2011年モデルって書いてたから、8年目?) お盆中ですがいま30分時間が空いたので一人で、オフィスでこれを書いている次第。

こんにちは

気付けば前のブログ記事から2年。もはやはてなダイアリーの書法すら忘れてます。はた目には生きてるのか死んでるのか分かりませんが、もちろん生きてます。起きたことをざっと書いておくと、

  • 次女が生まれた
  • 引っ越した(家買った!)
  • 本業の事業が順調に成長している(売上も大台に乗った)
  • 自分の会社も順調に続いている
  • 英会話で上級クラスに突入した
  • LoLが楽しい(リーグ・オブ・レジェンド

あたりでしょうか。

家庭の変化

子ども三人だと大変でしょーー、とよく言われるんですが、奥さんがとてもうまくやってくれていることもあり、あと夫婦ともに精神的に割と余裕があるからかおかげさまで楽しく生きております。上のお姉ちゃんも大きくて下の子の面倒をよく見てくれる、というのも大きいです。子どもの成長を見るのはやはりとても楽しい。昨日出来なかったことが今日出来るようになる、というのを目の当たりにすると本当にすごいなーと思うし、自分もそうあらねばと思います。家は、自分の部屋が出来たのがとても嬉しい。狭いけど城が出来た感じ。あとは念願の庭と縁側が出来てそれがお気に入りです。

仕事の変化

同じ事業を続けて、まる8年。海外行きまくってひたすら研究していた時代から考えると今はとても現実味のある仕事に落ち着いて、価値も認められ始めて次のフェーズに入ってきたなと実感してます。仕事として世の中に受け入れられると共に自分たちも前向きな空気になれているのが、我ながらとても良いと思っています。みんなそう思ってくれているといいんだけどなー。先週は久しぶりの合宿もやりましたがみんな会社や事業について考えてくれるのを見るととても感慨深く、当事者なのになぜか子どもを見る父親のような気持ちになってしまったのでした。

未来は

10年ひと昔、ですが。先週たまたま同期(山ちゃん)と二人で飲む機会があったんですが、10年前からか変わってないこと、変わったことどっちも気付けてそれがよかった。良くも悪くもパーソナリティ的なところはあんまり変わらなくて、仕事はどちらも偉くなって悩みの質も変わり、生活はどちらも家族が出来て10年分悩みも進んでいて。過去と比較することができる、というのは旧い友人だからこそ出来ることかなと思うのでした。


この10年、とても楽しかったし今も楽しいんだけど、命の燃える瞬間が減って来ている実感があります。色んなものに対して「わかった」気になっているのが自分でも怖いし、ある種の「見えてしまってる感」というか。もちろんね、今だからこそ見えることも言えることもたくさんある。でもそれって自分の積み重ねてきたものがあるから、では確かにあるんだけど、自分じゃ無いと出来ないのかでいうとそうでもないのでは、とも思う。仕事でも自分は役に立つ人間だと思っているけど、もはや老害化していないか?そうではないと、自分でも言い切れない気がする。

自分が本当に好きなものは、たぶん問題を解決することそれ自体だと思う。仕事でも趣味でも、好きなことはたぶんそれに集約されていて。自分が解きたい問題を最大限の力を使って解き続けたい。そういう在り方が自分の望んでいる生きている姿なんだろうなと今は思ってます。

なんか日記っぽい!日記だから、いいのか…